<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977</id><updated>2011-04-22T13:26:31.093+09:00</updated><title type='text'>太宰治（Dazai, Osamu）</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>15</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-111052438437066489</id><published>2005-11-06T08:08:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:41:51.190+09:00</updated><title type='text'>ご案内・掲載中の作品</title><content type='html'>こちらに掲載している作品は「&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/" target="_blank"&gt;青空文庫&lt;/a&gt;」に掲載されている著作権が切れたものです。また、掲載内容は「&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/" target="_blank"&gt;青空文庫&lt;/a&gt;」のものと全く同一です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こちらにでは各作品を短く区切り、サイト上で多少読みやすくしています。印刷したい場合、自分のPCに取り込みたい場合などは「&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/" target="_blank"&gt;青空文庫&lt;/a&gt;」のファイルを利用することをおすすめします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、ここは日本国外で日本文学を学ぶ外国の方々からのリクエストで始めたものです。今後も徐々に作品数を増やしていきます。作品のリクエストがあれば&lt;img src="http://www.nihonmura.com/common/mailimages/aiueo.jpg" /&gt;までご連絡ください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;掲載中の作品&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;br /&gt;&lt;li&gt;[新着]　&lt;a href="http://dazaiosamu.blogspot.com/2005_11_05_dazaiosamu_archive.html"&gt;人間失格&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;&lt;br /&gt;&lt;li&gt;　&lt;a href="http://dazaiosamu.blogspot.com/2005_03_10_dazaiosamu_archive.html"&gt;斜陽&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;&lt;br /&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-111052438437066489?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052438437066489'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052438437066489'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post.html' title='ご案内・掲載中の作品'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117831713486489</id><published>2005-11-05T10:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:29:50.183+09:00</updated><title type='text'>人間失格（はしがき）</title><content type='html'>　　　はしがき&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私は、その男の写真を三葉、見たことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、（それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;従姉妹&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いとこ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;たちかと想像される）庭園の池のほとりに、荒い縞の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;袴&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はかま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く？　けれども、鈍い人たち（つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち）は、面白くも何とも無いような顔をして、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「可愛い坊ちゃんですね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　といい加減なお世辞を言っても、まんざら&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;空&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;から&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;お世辞に聞えないくらいの、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;い&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんて、いやな子供だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;頗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すこぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;る不快そうに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つぶや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;皺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;変貌&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へんぼう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;していた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;覗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;のぞ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かせ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;籐椅子&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;とういす&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;生命&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いのち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋（部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている）の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;顎&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あご&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;所謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いわゆる&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="notes"&gt;［＃改頁］&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117831713486489?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117831713486489'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117831713486489'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_05.html' title='人間失格（はしがき）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117835308694636</id><published>2005-11-05T09:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:31:23.956+09:00</updated><title type='text'>人間失格（第一の手記）</title><content type='html'>　　　第一の手記&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　恥の多い生涯を送って来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;垢抜&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あかぬ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう？　カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分だって、それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;勿論&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もちろん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;膳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;気質&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かたぎ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;噛&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、（いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが）しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;晦渋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かいじゅう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり自分には、人間の営みというものが&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;未&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;転輾&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;てんてん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呻吟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しんぎん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;禍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わざわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脊負&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せお&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凄惨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せいさん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか？　エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか？　それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;爽快&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そうかい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金？　まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこで考え出したのは、道化でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また自分は、肉親たちに何か言われて、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;口応&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くちごた&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;えした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;霹靂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へきれき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;獅子&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;よりも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鰐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わに&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;尻尾&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しっぽ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でピシッと腹の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;虻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;戦慄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せんりつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;懊悩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おうのう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;空&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そら&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それあ、葉ちゃん、似合わない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脚絆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;レギンス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;以&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もっ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;てセエターを着ているように見せかけていたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;親戚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しんせき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;手帖&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;てちょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「葉蔵は？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;味&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あじわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;い、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「本が、いいでしょう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　長兄は、まじめな顔をして言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何という失敗、自分は父を怒らせた、父の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;復讐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふくしゅう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな？　と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;滅茶苦茶&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;めちゃくちゃ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にピアノのキイをたたかせ、（田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました）自分はその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;出鱈目&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;でたらめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;焚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;た&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布（それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;更紗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;さらさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の風呂敷でした）の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;他&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;馴染&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なじみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で、また、怪談、講談、落語、江戸&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;小咄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こばなし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;などの類にも、かなり通じていましたから、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;剽軽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひょうきん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嗚呼&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ああ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、学校！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;甚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はなは&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;滑稽噺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こっけいばなし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;痰壺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たんつぼ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にしてしまった失敗談（しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした）を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　お茶目。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凡&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;およ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;そ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;対蹠&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たいせき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;巡&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　必ず片手落のあるのが、わかり切っている、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;所詮&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょせん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　なんだ、人間への不信を言っているのか？　へえ？　お前はいつクリスチャンになったんだい、と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嘲笑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちょうしょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;する人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;お互いの不信の中で&lt;/strong&gt;、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;途々&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みちみち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、下男たちが嘆き合っていたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;清く明るく朗らかに&lt;/strong&gt;生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;妙諦&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みょうてい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嘗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;な&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;めずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嗅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="notes"&gt;［＃改頁］&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117835308694636?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117835308694636'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117835308694636'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_113117835308694636.html' title='人間失格（第一の手記）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117840461957911</id><published>2005-11-05T08:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:34:35.633+09:00</updated><title type='text'>人間失格（第二の手記）</title><content type='html'>　　　第二の手記&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嫩葉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わかば&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と共に、青い海を背景にして、その&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;絢爛&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けんらん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鏤&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちりば&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;徽章&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きしょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;眷属&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けんぞく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;曲者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くせもの&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蠕動&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぜんどう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もはや、自分の正体を完全に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;隠蔽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いんぺい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;上衣&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うわぎ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その日、体操の時間に、その生徒（姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています）その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;囁&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ささや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ワザ。ワザ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;震撼&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しんかん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ！　と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それからの日々の、自分の不安と恐怖。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;溜息&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ためいき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;傍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そば&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;から離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;於&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;お&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;媚笑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;びしょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;湛&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たた&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;猫撫&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ねこな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘（この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました）それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「耳が痛い」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　竹一は、立ったままでそう言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「雨に濡れたら、痛くなったよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;膿&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これは、いけない。痛いだろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;大袈裟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おおげさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;におどろいて見せて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;膝&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひざ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前は、きっと、女に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;惚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れられるよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;伽藍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;がらん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;幽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かす&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;雰囲気&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふんいき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;笞&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;むち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;治癒&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちゆ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し難い傷でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;邪慳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じゃけん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「御勉強？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と微笑して本を閉じ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なぜ？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そっくり。ロイドに、そっくり」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は立って片手を挙げ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「諸君」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「何か面白い本が無い？　貸してよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ごちそうさま」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蚯蚓&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みみず&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お化けの絵だよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　おや？　と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「すげえなあ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　竹一は眼を丸くして感嘆しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「地獄の馬みたい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やっぱり、お化けかね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;妖怪&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ようかい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;傷&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いた&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、（漫画などは別ですけれども）その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;揃&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そろ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嘔吐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おうと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前は、偉い絵画きになる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　という予言を得たのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;辟易&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へきえき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;して、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;完璧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かんぺき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず（自分はとうとう、明治神宮も、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;楠正成&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くすのきまさしげ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです）家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;淫売婦&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いんばいふ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「五円、貸してくれないか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蓬莱&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほうらい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯！　キヌさん、こいつは美男子だろう？　惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脊広&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せびろ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり！　自然に対するパアトス！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;軽蔑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けいべつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;緋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;絨緞&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じゅうたん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;吝嗇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;りんしょく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;情熱&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;パトス&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の噴出するがままに、（或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが）四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;危懼&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;先途&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せんど&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;愕然&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;がくぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;として、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、（淫売婦に限らず）本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;卑猥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひわい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;苦&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;にが&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;さを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、また、その&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;見栄坊&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みえぼう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のモダニティから、（堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが）或る日、自分を共産主義の読書会とかいう（Ｒ・Ｓとかいっていたか、記憶がはっきり致しません）そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのＲ・Ｓ（と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません）なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、（それには、底知れず強いものが予感せられます）そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;日蔭者&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひかげもの&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;生れた時からの日蔭者&lt;/strong&gt;のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;糟糠&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そうこう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の妻の如き好&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;伴侶&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はんりょ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で、そいつと二人きりで&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;侘&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;びしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脛&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すね&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、（これは、たいへん奇妙な言い方ですけど）その傷は、次第に自分の&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;血肉よりも&lt;/strong&gt;親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;囁&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ささや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;洒落&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しゃれ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出来ましたので、見込みのある「同志」として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬（同志は、ポリスをそう呼んでいました）にあやしまれ不審&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;訊問&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じんもん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;などを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない（その運動の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした）と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いているよりは、いっそ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;牢屋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ろうや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;老爺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ろうや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;から聞きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、（父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません）とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;慄然&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;りつぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;とし、心細さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、イサイフミの手紙（その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです）を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。武装&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蜂起&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほうき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、と聞き、小さいナイフを買い（いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした）それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;所謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いわゆる&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;聯絡&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;れんらく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、Ｐ（党の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません）のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにＰのひとたちに、それはお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;門&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かど&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;用箋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ようせん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と万年筆を持って自分の部屋にやって来て、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;腹這&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はらば&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いになり、煙草を吸い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あら、いやだ。あなたでしょう？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「光栄だわ、飲んでよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「見せてよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない？　あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいわよ、お金なんか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もうひとりは、女子高等師範の文科生の所謂「同志」でした。このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのキザに身震いしながら、自分は、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そのつもりでいるんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;愁&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うれ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;えを含んだ微笑の表情を作って答えます。とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、（その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;親爺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おやじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;などにやってしまいました）うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご機嫌をただ懸命に取り結び、もはや自分は、金縛り同様の形になっていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;空&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そら&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;おそろしさを感じていたのでした。その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;絣&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かすり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを装えるようになっていたのです。心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;伎倆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぎりょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」を、れいの運動で走り廻ったおかげ？　または、女の？　または、酒？　けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「十円しか無いんだからね、そのつもりで」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「心配要りません」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　どこかに関西の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;訛&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りがありました。そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;地金&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じがね&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「こんなの、おすきか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首を振りました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お酒だけか？　うちも飲もう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子（といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです）に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鮨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;やで、少しもおいしくない鮨を食べながら、（そのひとの名前は忘れても、その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました）そのひとを、待っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;噺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ばなし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;というものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　侘びしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つぶや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、（だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした）その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な（こんな大それた言葉を、なんの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;躊躇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちゅうちょ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです）解放せられた夜でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;銷沈&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょうちん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;して、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、ツネ子を噴き出させたような記憶があります。長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く引上げたのですが、その時の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」という&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;出鱈目&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;でたらめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を感じて来て、あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの女のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;頗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すこぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;るおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;狡猾&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こうかつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;さではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;塵&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時、自分は、酔って大胆になっているからでもありましたが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「カフエか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「行こう！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「かまわんだろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ありがたい！　おれは女に飢え渇いているんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、そのもう一人の女給が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハッとしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、にやにやと笑いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やめた！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と堀木は、口をゆがめて言い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お酒を。お金は無い」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;霹靂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へきれき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;微笑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほほえ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;み合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和（貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが）そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。吐きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だめ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなた、払うて置いて」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は立って、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;袂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たもと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;からがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;羞恥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しゅうち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;よりも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凄惨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せいさん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の思いに襲われ、たちまち&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脳裡&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;のうり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あら、たったそれだけ？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;未&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;所詮&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょせん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;実感として&lt;/strong&gt;決意したのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一緒に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;入水&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じゅすい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;親戚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しんせき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自殺&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;幇助&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほうじょ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;罪という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護室に収容しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　深夜、保護室の隣りの宿直室で、寝ずの番をしていた年寄りのお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;巡&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りが、間のドアをそっとあけ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分に声をかけ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やはり、死んだ女が恋いしいだろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「はい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ことさらに、消え入るような細い声で返事しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そこが、やはり人情というものだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼は次第に、大きく構えて来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ほとんど裁判官の如く、もったいぶって尋ねるのでした。彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分から&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;猥談&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わいだん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;めいた述懐を引き出そうという魂胆のようでした。自分は素早くそれを察し、噴き出したいのを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;怺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こら&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;えるのに骨を折りました。そんなお巡りの「非公式な訊問」には、いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興を添えるため、自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ取調べの主任であって、刑罰の軽重の決定もそのお巡りの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;思召&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おぼしめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し一つに在るのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」をするのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調べなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;赤痣&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あかあざ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この柔道か剣道の選手のような署長の取調べは、実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査のひそかな、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;執拗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しつよう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きわまる好色の「取調べ」とは、雲泥の差がありました。訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「からだを丈夫にしなけれゃ、いかんね。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;血痰&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けったん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が出ているようじゃないか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その朝、へんに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;咳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;霰&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あられ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;喉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;のど&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;から出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「はい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　署長は書類を書き終えて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父の東京の別荘に出入りしていた書画&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;骨董&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こっとう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;商の渋田という、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号を捜し、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな威張った口調で、それでも、とにかく引受けてくれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　お昼すぎ、自分は、細い麻繩で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嗚呼&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ああ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、その時期の&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;なつかしい&lt;/strong&gt;思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、（もし自分が美貌だったとしても、それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;い&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;静謐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せいひつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の気配を持っていました）コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;贋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;にせ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の咳を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;大袈裟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おおげさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ほんとうかい？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脊中&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せなか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を突かれ、地獄に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蹴落&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けおと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;された、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;侮蔑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぶべつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は起訴猶予になりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　背後の高い窓から夕焼けの空が見え、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鴎&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かもめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が、「女」という字みたいな形で飛んでいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="notes"&gt;［＃改頁］&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117840461957911?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117840461957911'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117840461957911'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_113117840461957911.html' title='人間失格（第二の手記）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117850949583587</id><published>2005-11-05T07:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:36:53.756+09:00</updated><title type='text'>人間失格（第三の手記　一）</title><content type='html'>　　　第三の手記&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　一&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;惚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れられるという、名誉で無い予言のほうは、あたりましたが、きっと偉い絵画きになるという、祝福の予言は、はずれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な漫画家になる事が出来ただけでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　鎌倉の事件のために、高等学校からは追放せられ、自分は、ヒラメの家の二階の、三畳の部屋で寝起きして、故郷からは月々、極めて小額の金が、それも直接に自分宛ではなく、ヒラメのところにひそかに送られて来ている様子でしたが、（しかも、それは故郷の兄たちが、父にかくして送ってくれているという形式になっていたようでした）それっきり、あとは故郷とのつながりを全然、断ち切られてしまい、そうして、ヒラメはいつも不機嫌、自分があいそ笑いをしても、笑わず、人間というものはこんなにも簡単に、それこそ手のひらをかえすが如くに変化できるものかと、あさましく、いや、むしろ滑稽に思われるくらいの、ひどい変り様で、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そればかり自分に言っているのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメは、自分に自殺のおそれありと、にらんでいるらしく、つまり、女の後を追ってまた海へ飛び込んだりする危険があると見てとっているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。けれども、酒も飲めないし、煙草も吸えないし、ただ、朝から晩まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで阿呆同然のくらしをしている自分には、自殺の気力さえ失われていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメの家は、大久保の医専の近くにあり、書画骨董商、青竜園、だなどと看板の文字だけは相当に気張っていても、一棟二戸の、その一戸で、店の間口も狭く、店内はホコリだらけで、いい加減なガラクタばかり並べ、（もっとも、ヒラメはその店のガラクタにたよって商売しているわけではなく、こっちの所謂旦那の秘蔵のものを、あっちの所謂旦那にその所有権をゆずる場合などに活躍して、お金をもうけているらしいのです）店に坐っている事は殆ど無く、たいてい朝から、むずかしそうな顔をしてそそくさと出かけ、留守は十七、八の小僧ひとり、これが自分の見張り番というわけで、ひまさえあれば近所の子供たちと外でキャッチボールなどしていても、二階の居候をまるで馬鹿か気違いくらいに思っているらしく、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;大人&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おとな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の説教くさい事まで自分に言い聞かせ、自分は、ひとと言い争いの出来ない&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;質&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;なので、疲れたような、また、感心したような顔をしてそれに耳を傾け、服従しているのでした。この小僧は渋田のかくし子で、それでもへんな事情があって、渋田は所謂親子の名乗りをせず、また渋田がずっと独身なのも、何やらその辺に理由があっての事らしく、自分も以前、自分の家の者たちからそれに就いての&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;噂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うわさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を、ちょっと聞いたような気もするのですが、自分は、どうも他人の身の上には、あまり興味を持てないほうなので、深い事は何も知りません。しかし、その小僧の眼つきにも、妙に魚の眼を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;聯想&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;れんそう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;させるところがありましたから、或いは、本当にヒラメのかくし子、……でも、それならば、二人は実に淋しい親子でした。夜おそく、二階の自分には内緒で、二人でおそばなどを取寄せて無言で食べている事がありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメの家では食事はいつもその小僧がつくり、二階のやっかい者の食事だけは別にお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;膳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に載せて小僧が三度々々二階に持ち運んで来てくれて、ヒラメと小僧は、階段の下のじめじめした四畳半で何やら、カチャカチャ皿小鉢の触れ合う音をさせながら、いそがしげに食事しているのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　三月末の或る夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何か他に策略でもあったのか、（その二つの推察が、ともに当っていたとしても、おそらくは、さらにまたいくつかの、自分などにはとても推察のとどかないこまかい原因もあったのでしょうが）自分を階下の珍らしくお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;銚子&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちょうし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;など附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;主人&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あるじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みずから感服し、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;賞讃&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょうさん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し、ぼんやりしている居候にも少しくお酒をすすめ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どうするつもりなんです、いったい、これから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分はそれに答えず、卓上の皿から&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;畳鰯&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たたみいわし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めていたら、酔いがほのぼの発して来て、遊び廻っていた頃がなつかしく、堀木でさえなつかしく、つくづく「自由」が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分がこの家へ来てからは、道化を演ずる張合いさえ無く、ただもうヒラメと小僧の蔑視の中に身を横たえ、ヒラメのほうでもまた、自分と打ち解けた長噺をするのを避けている様子でしたし、自分もそのヒラメを追いかけて何かを訴える気などは起らず、ほとんど自分は、間抜けづらの居候になり切っていたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「起訴猶予というのは、前科何犯とか、そんなものには、ならない模様です。だから、まあ、あなたの心掛け一つで、更生が出来るわけです。あなたが、もし、改心して、あなたのほうから、真面目に私に相談を持ちかけてくれたら、私も考えてみます」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメの話方には、いや、世の中の全部の人の話方には、このようにややこしく、どこか&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;朦朧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もうろう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;として、逃腰とでもいったみたいな微妙な複雑さがあり、そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と、無数といっていいくらいの小うるさい駈引とには、いつも自分は当惑し、どうでもいいやという気分になって、お道化で茶化したり、または無言の首肯で一さいおまかせという、謂わば敗北の態度をとってしまうのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この時もヒラメが、自分に向って、だいたい次のように簡単に報告すれば、それですむ事だったのを自分は後年に到って知り、ヒラメの不必要な用心、いや、世の中の人たちの不可解な見栄、おていさいに、何とも陰鬱な思いをしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメは、その時、ただこう言えばよかったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「官立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へはいりなさい。あなたの生活費は、学校へはいると、くにから、もっと充分に送って来る事になっているのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ずっと後になってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。それなのに、ヒラメのいやに用心深く持って廻った言い方のために、妙にこじれ、自分の生きて行く方向もまるで変ってしまったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「真面目に私に相談を持ちかけてくれる気持が無ければ、仕様がないですが」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どんな相談？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それは、あなたの胸にある事でしょう？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たとえば？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たとえばって、あなた自身、これからどうする気なんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「働いたほうが、いいんですか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、あなたの気持は、いったいどうなんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だって、学校へはいるといったって、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。その一言に依って、自分の気持も、きまった筈なのに、自分には、ただ五里霧中でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どうですか？　何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか？　いったい、どうも、ひとをひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されているひとには、わかりますまい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「すみません」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、あなたにも、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;生半可&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なまはんか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な気持でいてもらいたくないのです。立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。たとえば、あなたの将来の方針、それに就いてあなたのほうから私に、まじめに相談を持ちかけて来たなら、私もその相談には応ずるつもりでいます。それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、あなたの気持がしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ち&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;樹&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;た&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;て、そうして私に相談をしてくれたら、私は、たといわずかずつでも、あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。わかりますか？　私の気持が。いったい、あなたは、これから、どうするつもりでいるのです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「本気で、そんな事を言っているのですか？　いまのこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それじゃ、何です」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「画家です」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　思い切って、それを言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「へええ？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、その時の、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;頸&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をちぢめて笑ったヒラメの顔の、いかにもずるそうな影を忘れる事が出来ません。軽蔑の影にも似て、それとも違い、世の中を海にたとえると、その海の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;千尋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちひろ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の深さの箇所に、そんな奇妙な影がたゆとうていそうで、何か、おとなの生活の奥底をチラと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;覗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;のぞ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かせたような笑いでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上って、寝ても、別に何の考えも浮びませんでした。そうして、あけがたになり、ヒラメの家から逃げました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　夕方、間違いなく帰ります。左記の友人の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;許&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;へ、将来の方針に就いて相談に行って来るのですから、御心配無く。ほんとうに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、用箋に鉛筆で大きく書き、それから、浅草の堀木正雄の住所姓名を記して、こっそり、ヒラメの家を出ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメに説教せられたのが、くやしくて逃げたわけではありませんでした。まさしく自分は、ヒラメの言うとおり、気持のしっかりしていない男で、将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、この上、ヒラメの家のやっかいになっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに、もし万一、自分にも発奮の気持が起り、志を立てたところで、その更生資金をあの貧乏なヒラメから月々援助せられるのかと思うと、とても心苦しくて、いたたまらない気持になったからでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、自分は、所謂「将来の方針」を、堀木ごときに、相談に行こうなどと本気に思って、ヒラメの家を出たのでは無かったのでした。それは、ただ、わずかでも、つかのまでも、ヒラメに安心させて置きたくて、（その間に自分が、少しでも遠くへ逃げのびていたいという探偵小説的な策略から、そんな置手紙を書いた、というよりは、いや、そんな気持も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;幽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かす&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱当惑させてしまうのが、おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かも知れません。どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が「嘘つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、ただ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;雰囲気&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふんいき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、しかし、この習性もまた、世間の所謂「正直者」たちから、大いに乗ぜられるところとなりました）その時、ふっと、記憶の底から浮んで来たままに堀木の住所と姓名を、用箋の端にしたためたまでの事だったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐中の本を売り、そうして、やっぱり途方にくれてしまいました。自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;於&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;お&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いては欠けているところがあるようでした。（もっとも、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています）そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は無く、そのうえ自分には、「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;訪問&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ヴィジット&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」の能力さえ無かったのです。他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張でなしに、実感せられていたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　誰とも、附き合いが無い。どこへも、訪ねて行けない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それこそ、冗談から駒が出た形でした。あの置手紙に、書いたとおりに、自分は浅草の堀木をたずねて行く事にしたのです。自分はこれまで、自分のほうから堀木の家をたずねて行った事は、いちども無く、たいてい電報で堀木を自分のほうに呼び寄せていたのですが、いまはその電報料さえ心細く、それに落ちぶれた身のひがみから、電報を打っただけでは、堀木は、来てくれぬかも知れぬと考えて、何よりも自分に苦手の「訪問」を決意し、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;溜息&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ためいき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をついて市電に乗り、自分にとって、この世の中でたった一つの頼みの綱は、あの堀木なのか、と思い知ったら、何か&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;脊筋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せすじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の寒くなるような&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すさま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;じい気配に襲われました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、在宅でした。汚い露路の奥の、二階家で、堀木は二階のたった一部屋の六畳を使い、下では、堀木の老父母と、それから若い職人と三人、下駄の鼻緒を縫ったり叩いたりして製造しているのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、その日、彼の都会人としての新しい一面を自分に見せてくれました。それは、俗にいうチャッカリ性でした。田舎者の自分が、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;愕然&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;がくぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と眼をみはったくらいの、冷たく、ずるいエゴイズムでした。自分のように、ただ、とめどなく流れるたちの男では無かったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前には、全く&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れた。親爺さんから、お許しが出たかね。まだかい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　逃げて来た、とは、言えませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、れいに依って、ごまかしました。いまに、すぐ、堀木に気附かれるに違いないのに、ごまかしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それは、どうにかなるさ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい、笑いごとじゃ無いぜ。忠告するけど、馬鹿もこのへんでやめるんだな。おれは、きょうは、用事があるんだがね。この頃、ばかにいそがしいんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「用事って、どんな？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい、おい、座蒲団の糸を切らないでくれよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は話をしながら、自分の敷いている座蒲団の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;綴糸&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;とじいと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;というのか、くくり&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;紐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひも&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;というのか、あの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;総&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;のような四隅の糸の一つを無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。堀木は、堀木の家の品物なら、座蒲団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる色も無く、それこそ、眼に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;角&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かど&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を立てて、自分をとがめるのでした。考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木の老母が、おしるこを二つお盆に載せて持って来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あ、これは」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「すみません、おしるこですか。豪気だなあ。こんな心配は、要らなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけれゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの御自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、まんざら芝居でも無いみたいに、ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。自分もそれを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;啜&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すす&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りましたが、お湯のにおいがして、そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、自分にはわからないものでした。決して、その貧しさを軽蔑したのではありません。（自分は、その時それを、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;不味&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まず&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いとは思いませんでしたし、また、老母の心づくしも身にしみました。自分には、貧しさへの恐怖感はあっても、軽蔑感は、無いつもりでいます）あのおしること、それから、そのおしるこを喜ぶ堀木に依って、自分は、都会人のつましい本性、また、内と外をちゃんと区別していとなんでいる東京の人の家庭の実体を見せつけられ、内も外も変りなく、ただのべつ幕無しに人間の生活から逃げ廻ってばかりいる薄馬鹿の自分ひとりだけ完全に取残され、堀木にさえ見捨てられたような気配に、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;狼狽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ろうばい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;し、おしるこのはげた&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;塗箸&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぬりばし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をあつかいながら、たまらなく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;侘&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;びしい思いをしたという事を、記して置きたいだけなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わるいけど、おれは、きょうは用事があるんでね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は立って、上衣を着ながらそう言い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「失敬するぜ、わるいけど」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その時、堀木に女の訪問者があり、自分の身の上も急転しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、にわかに活気づいて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「や、すみません。いまね、あなたのほうへお伺いしようと思っていたのですがね、このひとが突然やって来て、いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　よほど、あわてているらしく、自分が自分の敷いている座蒲団をはずして裏がえしにして差し出したのを引ったくって、また裏がえしにして、その女のひとにすすめました。部屋には、堀木の座蒲団の他には、客座蒲団がたった一枚しか無かったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女のひとは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;痩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;や&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;せて、脊の高いひとでした。その座蒲団は傍にのけて、入口ちかくの片隅に坐りました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。女は雑誌社のひとのようで、堀木にカットだか、何だかをかねて頼んでいたらしく、それを受取りに来たみたいな具合いでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いそぎますので」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　電報が来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木が、それを読み、上機嫌のその顔がみるみる険悪になり、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ちぇっ！　お前、こりゃ、どうしたんだい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメからの電報でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、無えや。家出していながら、その、のんきそうな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;面&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つら&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ったら」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お宅は、どちらなのですか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「大久保です」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ふいと答えてしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そんなら、社の近くですから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女は、甲州の生れで二十八歳でした。五つになる女児と、高円寺のアパートに住んでいました。夫と死別して、三年になると言っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたは、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。よく気がきくわ。可哀そうに」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　はじめて、男めかけみたいな生活をしました。シヅ子（というのが、その女記者の名前でした）が新宿の雑誌社に勤めに出たあとは、自分とそれからシゲ子という五つの女児と二人、おとなしくお留守番という事になりました。それまでは、母の留守には、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようでしたが、「気のきく」おじさんが遊び相手として現われたので、大いに御機嫌がいい様子でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一週間ほど、ぼんやり、自分はそこにいました。アパートの窓のすぐ近くの電線に、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;奴凧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;やっこだこ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が一つひっからまっていて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつっこく電線にからみついて離れず、何やら&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;首肯&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うなず&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いたりなんかしているので、自分はそれを見る度毎に苦笑し、赤面し、夢にさえ見て、うなされました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お金が、ほしいな」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「……いくら位？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たくさん。……金の切れ目が、縁の切れ目、って、本当の事だよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ばからしい。そんな、古くさい、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そう？　しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げる事になるかも知れない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、煙草を買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　このような時、自分の脳裡におのずから浮びあがって来るものは、あの中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」の、数枚の自画像でした。失われた傑作。それは、たびたびの引越しの間に、失われてしまっていたのですが、あれだけは、たしかに優れている絵だったような気がするのです。その後、さまざま画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く遠く及ばず、自分はいつも、胸がからっぽになるような、だるい喪失感になやまされ続けて来たのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　飲み残した一杯のアブサン。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、その永遠に償い難いような喪失感を、こっそりそう形容していました。絵の話が出ると、自分の眼前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついて来て、ああ、あの絵をこのひとに見せてやりたい、そうして、自分の画才を信じさせたい、という&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;焦燥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょうそう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にもだえるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして冗談を言うから可愛い」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　冗談ではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい、と空転の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;煩悶&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はんもん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をして、ふいと気をかえ、あきらめて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「漫画さ。すくなくとも、漫画なら、堀木よりは、うまいつもりだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その、ごまかしの道化の言葉のほうが、かえってまじめに信ぜられました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうね。私も、実は感心していたの。シゲ子にいつもかいてやっている漫画、つい私まで噴き出してしまう。やってみたら、どう？　私の社の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;編輯長&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へんしゅうちょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に、たのんでみてあげてもいいわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その社では、子供相手のあまり名前を知られていない月刊の雑誌を発行していたのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シヅ子に、そのほかさまざまの事を言われて、おだてられても、それが&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;即&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すなわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ち男めかけのけがらわしい特質なのだ、と思えば、それこそいよいよ「沈む」ばかりで、一向に元気が出ず、女よりは金、とにかくシヅ子からのがれて自活したいとひそかに念じ、工夫しているものの、かえってだんだんシヅ子にたよらなければならぬ破目になって、家出の後仕末やら何やら、ほとんど全部、この男まさりの甲州女の世話を受け、いっそう自分は、シヅ子に対し、所謂「おどおど」しなければならぬ結果になったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シヅ子の取計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の会談が成立して、自分は、故郷から全く絶縁せられ、そうしてシヅ子と「天下晴れて」&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;同棲&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;どうせい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;という事になり、これまた、シヅ子の奔走のおかげで自分の漫画も案外お金になって、自分はそのお金で、お酒も、煙草も買いましたが、自分の心細さ、うっとうしさは、いよいよつのるばかりなのでした。それこそ「沈み」に「沈み」切って、シヅ子の雑誌の毎月の連載漫画「キンタさんとオタさんの冒険」を画いていると、ふいと故郷の家が思い出され、あまりの侘びしさに、ペンが動かなくなり、うつむいて涙をこぼした事もありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そういう時の自分にとって、幽かな救いは、シゲ子でした。シゲ子は、その頃になって自分の事を、何もこだわらずに「お父ちゃん」と呼んでいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ああ、われに冷き意志を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。人が人を押しのけても、罪ならずや。われに、怒りのマスクを与え給え。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;笞&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;むち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どうして、ダメなの？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「親の言いつけに、そむいたから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そう？　お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、何気無さそうに話頭を転じました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ぎょっとして、くらくら目まいしました。敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ、他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、あの「不意に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;虻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を叩き殺す牛のしっぽ」を持っていたのでした。自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;色魔&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しきま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;！　いるかい？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。あの家出の日に、あれほど自分を淋しくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、幽かに笑って迎えるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。アマチュアには、こわいもの知らずの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;糞度胸&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くそどきょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;があるからかなわねえ。しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなってやしないんだから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　お師匠みたいな態度をさえ示すのです。自分のあの「お化け」の絵を、こいつに見せたら、どんな顔をするだろう、とれいの空転の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;身悶&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みもだ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;えをしながら、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、いよいよ得意そうに、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。自分に、世渡りの才能！　しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;俗諺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぞくげん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;怜悧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;れいり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;狡猾&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こうかつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、何せ、（それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが）自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、月下氷人のように振舞い、もっともらしい顔をして自分にお説教めいた事を言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪問して泊ったり、また、五円（きまって五円でした）借りて行ったりするのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「世間というのは、君じゃないか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（それは世間が、ゆるさない）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（世間じゃない。あなたでしょう？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（いまに世間から葬られる）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;汝&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なんじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、汝個人のおそろしさ、怪奇、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悪辣&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あくらつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;古狸&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふるだぬき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;性、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;妖婆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ようば&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;性を知れ！　などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;冷汗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひやあせ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、冷汗」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言って笑っただけでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども、その時以来、自分は、（世間とは個人じゃないか）という、思想めいたものを持つようになったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無口で、笑わず、毎日々々、シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「ノンキ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;和尚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おしょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」やら、また、「セッカチピンチャン」という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やらを、各社の御注文（ぽつりぽつり、シヅ子の社の他からも注文が来るようになっていましたが、すべてそれは、シヅ子の社よりも、もっと下品な謂わば三流出版社からの注文ばかりでした）に応じ、実に実に陰鬱な気持で、のろのろと、（自分の画の運筆は、非常におそいほうでした）いまはただ、酒代がほしいばかりに画いて、そうして、シヅ子が社から帰るとそれと交代にぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンド・バアで安くて強い酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「見れば見るほど、へんな顔をしているねえ、お前は。ノンキ和尚の顔は、実は、お前の寝顔からヒントを得たのだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたの寝顔だって、ずいぶんお老けになりましてよ。四十男みたい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前のせいだ。吸い取られたんだ。水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ川端やなあぎいサ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「騒がないで、早くおやすみなさいよ。それとも、ごはんをあがりますか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　落ちついていて、まるで相手にしません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「酒なら飲むがね。水の流れと、人の身はあサ。人の流れと、いや、水の流れえと、水の身はあサ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　唄いながら、シヅ子に衣服をぬがせられ、シヅ子の胸に自分の額を押しつけて眠ってしまう、それが自分の日常でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="jisage_2" style="MARGIN-LEFT: 2em"&gt;&lt;br /&gt;してその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;翌日&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あくるひ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も同じ事を繰返して、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;昨日&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きのう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;異&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;らぬ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;慣例&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しきたり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に従えばよい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;即ち荒っぽい大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;歓楽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よろこび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;避&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;けてさえいれば、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自然また大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かなしみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;もやって&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;来&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ゆくてを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;塞&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ぐ邪魔な石を&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蟾蜍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひきがえる&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は廻って通る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらいに赤くしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　蟾蜍。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（それが、自分だ。世間がゆるすも、ゆるさぬもない。葬むるも、葬むらぬもない。自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。蟾蜍。のそのそ動いているだけだ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の飲酒は、次第に量がふえて来ました。高円寺駅附近だけでなく、新宿、銀座のほうにまで出かけて飲み、外泊する事さえあり、ただもう「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;慣例&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しきたり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」に従わぬよう、バアで無頼漢の振りをしたり、片端からキスしたり、つまり、また、あの情死以前の、いや、あの頃よりさらに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;荒&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;んで野卑な酒飲みになり、金に窮して、シヅ子の衣類を持ち出すほどになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、葉桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;襦袢&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じゅばん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なぜ、お酒を飲むの？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいひとは、お酒を飲むの？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうでもないけど、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「セッカチピンチャンみたいね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうねえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして、京橋のすぐ近くのスタンド・バアの二階に自分は、またも男めかけの形で、寝そべる事になりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;人間は決して人間に服従しない&lt;/strong&gt;、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;称&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;とな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;大洋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;オーシャン&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わかれて来た」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それだけ言って、それで充分、つまり一本勝負はきまって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になったのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見て&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;甚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はなは&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;得態&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;えたい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の知れない存在だった筈なのに、「世間」は少しもあやしまず、そうしてその店の常連たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;百日咳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひゃくにちぜき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;黴菌&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ばいきん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;禿頭&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;とくとう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;病の黴菌が何十万、省線の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;吊皮&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つりかわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;には&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;疥癬&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かいせん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな暗い気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片脚を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットホームの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;縁&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;とのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落とし込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;如何&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。こわいもの見たさ。自分は、毎晩、それでもお店に出て、子供が、実は少しこわがっている小動物などを、かえって強くぎゅっと握ってしまうみたいに、店のお客に向って酔ってつたない芸術論を吹きかけるようにさえなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　漫画家。ああ、しかし、自分は、大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;歓楽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よろこび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も、また、大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かなしみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;もない無名の漫画家。いかに大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かなしみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;があとでやって来てもいい、荒っぽい大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;歓楽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よろこび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が欲しいと内心あせってはいても、自分の現在のよろこびたるや、お客とむだ事を言い合い、お客の酒を飲む事だけでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　京橋へ来て、こういうくだらない生活を既に一年ちかく続け、自分の漫画も、子供相手の雑誌だけでなく、駅売りの粗悪で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;卑猥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひわい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な雑誌などにも載るようになり、自分は、上司幾太（情死、生きた）という、ふざけ切った匿名で、汚いはだかの絵など画き、それにたいていルバイヤットの詩句を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;插入&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;そうにゅう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="jisage_2" style="MARGIN-LEFT: 2em"&gt;&lt;br /&gt;無駄な御祈りなんか&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;止&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;せったら&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;涙を誘うものなんか　かなぐりすてろ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まア一杯いこう　好いことばかり思出して&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よけいな心づかいなんか忘れっちまいな&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不安や恐怖もて人を脅やかす&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;奴輩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;やから&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みずから&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の作りし大それた罪に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;怯&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;え&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;死にしものの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;復讐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふくしゅう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に備えんと&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みずから&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の頭にたえず計いを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;為&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;な&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;す&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よべ　酒充ちて我ハートは喜びに充ち&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;けさ　さめて&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;只&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ただ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に荒涼&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いぶかし　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;一夜&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひとよ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;さの中&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;様変りたる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;此&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;この&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;気分よ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;祟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;たた&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りなんて思うこと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;止&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;や&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;めてくれ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;遠くから響く太鼓のように&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何がなしそいつは不安だ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;屁&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;へ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ひったこと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;迄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まで&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;一々罪に勘定されたら助からんわい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正義は人生の指針たりとや？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらば血に塗られたる戦場に&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;暗殺者の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;切尖&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きっさき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何の正義か宿れるや？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずこに指導原理ありや？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いかなる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;叡智&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;えいち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の光ありや？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;美&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うる&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;わしくも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;怖&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おそろ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しきは浮世なれ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かよわき人の子は背負切れぬ荷をば負わされ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうにもできない情慾の種子を植えつけられた&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;許&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ばか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;りに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;善だ悪だ罪だ罰だと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呪&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;のろ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;わるるばかり&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうにもできない只まごつくばかり&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;抑え&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;摧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くだ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;く力も意志も授けられぬ許りに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どこをどう&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;彷徨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うろつき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;まわってたんだい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ナニ批判　検討　再認識？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘッ　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;空&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;むな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しき夢を　ありもしない幻を&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エヘッ　酒を忘れたんで　みんな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;虚仮&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;こけ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の思案さ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうだ　此&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;涯&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はて&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;もない大空を御覧よ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;此中にポッチリ浮んだ点じゃい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;此地球が何んで自転するのか分るもんか&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自転　公転　反転も勝手ですわい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;至る&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;処&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ところ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に　至高の力を感じ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あらゆる国にあらゆる民族に&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同一の人間性を発見する&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我は異端者なりとかや&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;みんな聖経をよみ違えてんのよ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でなきゃ常識も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;智慧&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちえ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;もないのよ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;生身&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いきみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の喜びを禁じたり　酒を止めたり&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いいわ　ムスタッファ　わたしそんなの　大嫌い&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いけないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　バアの向いの、小さい煙草屋の十七、八の娘でした。ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でした。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来すは、ただ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;微醺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;びくん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をもたらす玉杯なれ、ってね。わかるかい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わからない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「この野郎。キスしてやるぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「してよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ちっとも悪びれず下唇を突き出すのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「馬鹿野郎。貞操観念、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、ヨシちゃんの表情には、あきらかに誰にも汚されていない処女のにおいがしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　としが明けて厳寒の夜、自分は酔って煙草を買いに出て、その煙草屋の前のマンホールに落ちて、ヨシちゃん、たすけてくれえ、と叫び、ヨシちゃんに引き上げられ、右腕の傷の手当を、ヨシちゃんにしてもらい、その時ヨシちゃんは、しみじみ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「飲みすぎますわよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と笑わずに言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は死ぬのは平気なんだけど、怪我をして出血してそうして不具者などになるのは、まっぴらごめんのほうですので、ヨシちゃんに腕の傷の手当をしてもらいながら、酒も、もういい加減によそうかしら、と思ったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やめる。あしたから、一滴も飲まない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ほんとう？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁になってくれるかい？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、お嫁の件は冗談でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「モチよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　モチとは、「勿論」の略語でした。モボだの、モガだの、その頃いろんな略語がはやっていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;翌&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;る日、自分は、やはり昼から飲みました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ち、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あら、いやだ。酔った振りなんかして」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ハッとしました。酔いもさめた気持でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔った振りなんかしてるんじゃない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「からかわないでよ。ひとがわるい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　てんで疑おうとしないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お芝居が、うまいのねえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「芝居じゃあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「してよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう？　飲んだのだよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薄暗い店の中に坐って微笑しているヨシちゃんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ、自分は今まで、自分よりも若い処女と寝た事がない、結婚しよう、どんな大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かなしみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;がそのために後からやって来てもよい、荒っぽいほどの大きな&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;歓楽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よろこび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を、生涯にいちどでいい、処女性の美しさとは、それは馬鹿な詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども、やはりこの世の中に生きて在るものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、所謂「一本勝負」で、その花を盗むのにためらう事をしませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうして自分たちは、やがて結婚して、それに依って得た&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;歓楽&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;よろこび&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、必ずしも大きくはありませんでしたが、その後に来た&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲哀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かなしみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;は、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凄惨&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せいさん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;と言っても足りないくらい、実に想像を絶して、大きくやって来ました。自分にとって、「世の中」は、やはり底知れず、おそろしいところでした。決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117850949583587?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117850949583587'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117850949583587'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_113117850949583587.html' title='人間失格（第三の手記　一）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117854942294891</id><published>2005-11-05T06:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:37:39.280+09:00</updated><title type='text'>人間失格（第三の手記　二）</title><content type='html'>　　　　　二&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木と自分。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　互いに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;軽蔑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けいべつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しながら附き合い、そうして互いに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みずか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;らをくだらなくして行く、それがこの世の所謂「交友」というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」に違いありませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分があの京橋のスタンド・バアのマダムの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;義侠心&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぎきょうしん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にすがり、（女のひとの義侠心なんて、言葉の奇妙な遣い方ですが、しかし、自分の経験に依ると、少くとも&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;都会の&lt;/strong&gt;男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました。男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした）あの煙草屋のヨシ子を内縁の妻にする事が出来て、そうして&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;築地&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つきじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、隅田川の近く、木造の二階建ての小さいアパートの階下の一室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定った職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはいり、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになる事が出来て、悲惨な死に方などせずにすむのではなかろうかという甘い思いを幽かに胸にあたためはじめていた矢先に、堀木がまた自分の眼前に現われました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「よう！　色魔。おや？　これでも、いくらか分別くさい顔になりやがった。きょうは、高円寺女史からのお使者なんだがね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いかけて、急に声をひそめ、お勝手でお茶の仕度をしているヨシ子のほうを&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;顎&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あご&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でしゃくって、大丈夫かい？　とたずねますので、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「かまわない。何を言ってもいい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分は落ちついて答えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　じっさい、ヨシ子は、信頼の天才と言いたいくらい、京橋のバアのマダムとの間はもとより、自分が鎌倉で起した事件を知らせてやっても、ツネ子との間を疑わず、それは自分が嘘がうまいからというわけでは無く、時には、あからさまな言い方をする事さえあったのに、ヨシ子には、それがみな冗談としか聞きとれぬ様子でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「相変らず、しょっていやがる。なに、たいした事じゃないがね、たまには、高円寺のほうへも遊びに来てくれっていう御伝言さ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやって来て、記憶の傷口をその&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嘴&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;くちばし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で突き破ります。たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開せられ、わあっと叫びたいほどの恐怖で、坐っておられなくなるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「飲もうか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「よし」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と堀木。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分と堀木。形は、ふたり似ていました。そっくりの人間のような気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駈けめぐるという具合いになるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その日以来、自分たちは再び旧交をあたためたという形になり、京橋のあの小さいバアにも一緒に行き、そうして、とうとう、高円寺のシヅ子のアパートにもその泥酔の二匹の犬が訪問し、宿泊して帰るなどという事にさえなってしまったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　忘れも、しません。むし暑い夏の夜でした。堀木は日暮頃、よれよれの浴衣を着て築地の自分のアパートにやって来て、きょう或る必要があって夏服を質入したが、その質入が老母に知れるとまことに具合いが悪い、すぐ受け出したいから、とにかく金を貸してくれ、という事でした。あいにく自分のところにも、お金が無かったので、例に依って、ヨシ子に言いつけ、ヨシ子の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、堀木に貸しても、まだ少し余るのでその残金でヨシ子に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;焼酎&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょうちゅう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を買わせ、アパートの屋上に行き、隅田川から時たま幽かに吹いて来るどぶ臭い風を受けて、まことに薄汚い納涼の宴を張りました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいかい？　煙草は？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分が問います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「トラ。（&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;悲劇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;トラジディ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の略）」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と堀木が言下に答えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「薬は？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「粉薬かい？　丸薬かい？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「注射」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「トラ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうかな？　ホルモン注射もあるしねえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ（&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;喜劇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;コメディ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の略）なんだぜ。死は？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「コメ。牧師も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;和尚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おしょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も然りじゃね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「大出来。そうして、生はトラだなあ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ちがう。それも、コメ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は？　よもや、コメとは言えませんでしょう？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「トラ、トラ。大悲劇名詞！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんだ、大トラは君のほうだぜ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こんな、下手な&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;駄洒落&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;だじゃれ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嘗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;つて存しなかった&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;頗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すこぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;る気のきいたものだと得意がっていたのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;対義語&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アントニム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の当てっこでした。黒のアント（&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;対義語&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アントニム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の略）は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「花のアントは？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、それはアントになっていない。むしろ、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;同義語&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;シノニム&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ。星と&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;菫&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すみれ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だって、シノニムじゃないか。アントでない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わかった、それはね、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蜂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ハチ？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;牡丹&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぼたん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に、……&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蟻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あり&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;か？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なあんだ、それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;画題&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;モチイフ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ。ごまかしちゃいけない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わかった！　花にむら雲、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「月にむら雲だろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「まずいなあ、それは&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;浪花節&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なにわぶし&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の文句じゃないか。おさとが知れるぜ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;琵琶&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;びわ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ついでに、女のシノニムは？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「臓物」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「君は、どうも、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;詩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ポエジイ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を知らんね。それじゃあ、臓物のアントは？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「牛乳」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「堀木正雄は？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;い&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;わば「生ける&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;屍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しかばね&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「法律さ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れかえり、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　罪の対義語が、法律とは！　しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それじゃあ、なんだい、神か？　お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「悪と罪とは違うのかい？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ありがてえ。好物だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　両手を頭のうしろに組んで、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;仰向&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あおむけ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にごろりと寝ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;何処&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;どこ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;かで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持が険しくなって来るのを懸命に抑えて、ほとんど独りごとのようにして言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「しかし、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;牢屋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ろうや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嗚呼&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ああ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ツミの対語は、ミツさ。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蜜&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「君が持って来たらいいじゃないか！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ほとんど、ろれつの廻らぬくらいに酔っているのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;出鱈目&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;でたらめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を言いながら起き上ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら？　罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;相容&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あいい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい！　とんだ、そら豆だ。来い！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「見ろ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と小声で言って指差します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;劇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はげ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しい呼吸と共に胸の中で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つぶや&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、大きい&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;咳&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;せき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ばらいをしました。自分は、ひとり逃げるようにまた屋上に駈け上り、寝ころび、雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ、そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;凄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;まじい恐怖でした。それも、墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるようになりました。実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。自分は、まっこうから&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;眉間&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;みけん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　気まずい場所に、永くとどまっているほど&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;間&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ま&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の抜けた堀木ではありませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。いくらでも、いくらでも泣けるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんにも、しないからって言って、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや？　相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎悪よりも、さいしょに見つけたすぐその時に大きい咳ばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引返して来た堀木に対する憎しみと怒りが、眠られぬ夜などにむらむら起って&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;うめ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　神に問う。信頼は罪なりや。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっているものにとって、ヨシ子の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;無垢&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;むく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;の信頼心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。それが一夜で、黄色い汚水に変ってしまいました。見よ、ヨシ子は、その夜から自分の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;一顰&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いっぴん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;一笑にさえ気を遣うようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「おい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と呼ぶと、ぴくっとして、もう眼のやり場に困っている様子です。どんなに自分が笑わせようとして、お道化を言っても、おろおろし、びくびくし、やたらに自分に敬語を遣うようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、人妻の犯された物語の本を、いろいろ捜して読んでみました。けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしている女は、ひとりも無いと思いました。どだい、これは、てんで物語にも何もなりません。あの小男の商人と、ヨシ子とのあいだに、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持もかえってたすかるかも知れませんが、ただ、夏の一夜、ヨシ子が信頼して、そうして、それっきり、しかもそのために自分の眉間は、まっこうから割られ声が嗄れて若白髪がはじまり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。たいていの物語は、その妻の「行為」を夫が許すかどうか、そこに重点を置いていたようでしたが、それは自分にとっては、そんなに苦しい大問題では無いように思われました。許す、許さぬ、そのような権利を留保している夫こそ幸いなる&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;哉&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かな&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;、とても許す事が出来ぬと思ったなら、何もそんなに大騒ぎせずとも、さっさと妻を離縁して、新しい妻を迎えたらどうだろう、それが出来なかったら、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;所謂&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いわゆる&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;「許して」我慢するさ、いずれにしても夫の気持一つで四方八方がまるく収るだろうに、という気さえするのでした。つまり、そのような事件は、たしかに夫にとって大いなるショックであっても、しかし、それは「ショック」であって、いつまでも尽きること無く打ち返し打ち寄せる波と違い、権利のある夫の怒りでもってどうにでも処理できるトラブルのように自分には思われたのでした。けれども、自分たちの場合、夫に何の権利も無く、考えると何もかも自分がわるいような気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言えず、また、その妻は、その所有している&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;稀&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まれ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な美質に依って犯されたのです。しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心というたまらなく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;可憐&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かれん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;なものなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無垢の信頼心は、罪なりや。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。自分の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;猥画&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わいが&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に近いものを画くようになりました。いいえ、はっきり言います。自分はその頃から、春画のコピイをして密売しました。焼酎を買うお金がほしかったのです。いつも自分から視線をはずしておろおろしているヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人といちどだけでは無かったのではなかろうか、また、堀木は？　いや、或いは自分の知らない人とも？　と疑惑は疑惑を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気も無く、れいの不安と恐怖にのたうち廻る思いで、ただ焼酎を飲んで酔っては、わずかに卑屈な誘導&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;訊問&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;じんもん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みたいなものをおっかなびっくり試み、内心おろかしく一喜一憂し、うわべは、やたらにお道化て、そうして、それから、ヨシ子にいまわしい地獄の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;愛撫&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あいぶ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を加え、泥のように眠りこけるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その年の暮、自分は夜おそく泥酔して帰宅し、砂糖水を飲みたく、ヨシ子は眠っているようでしたから、自分でお勝手に行き砂糖壺を捜し出し、ふたを開けてみたら砂糖は何もはいってなくて、黒く細長い紙の小箱がはいっていました。何気なく手に取り、その箱にはられてあるレッテルを見て&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;愕然&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;がくぜん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;としました。そのレッテルは、爪で半分以上も&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;掻&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;きはがされていましたが、洋字の部分が残っていて、それにはっきり書かれていました。ＤＩＡＬ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ジアール。自分はその頃もっぱら焼酎で、催眠剤を用いてはいませんでしたが、しかし、不眠は自分の持病のようなものでしたから、たいていの催眠剤にはお&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;馴染&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なじ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みでした。ジアールのこの箱一つは、たしかに致死量以上の筈でした。まだ箱の封を切ってはいませんでしたが、しかし、いつかは、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;やる気で&lt;/strong&gt;こんなところに、しかもレッテルを掻きはがしたりなどして隠していたのに違いありません。可哀想に、あの子にはレッテルの洋字が読めないので、爪で半分掻きはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。（お前に罪は無い）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうり、コップの水を落ちついて飲みほし、電燈を消してそのまま寝ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。医者は過失と見なして、警察にとどけるのを猶予してくれたそうです。&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;覚醒&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かくせい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;しかけて、一ばんさきに呟いたうわごとは、うちへ帰る、という言葉だったそうです。うちとは、どこの事を差して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　次第に霧がはれて、見ると、枕元にヒラメが、ひどく不機嫌な顔をして坐っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このまえも、年の暮の事でしてね、お互いもう、目が廻るくらいいそがしいのに、いつも、年の暮をねらって、こんな事をやられたひには、こっちの命がたまらない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒラメの話の聞き手になっているのは、京橋のバアのマダムでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「マダム」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と自分は呼びました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うん、何？　気がついた？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　マダムは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、ぽろぽろ涙を流し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ヨシ子とわかれさせて」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分でも思いがけなかった言葉が出ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　マダムは身を起し、幽かな溜息をもらしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それから自分は、これもまた実に思いがけない滑稽とも阿呆らしいとも、形容に苦しむほどの失言をしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「僕は、女のいないところに行くんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　うわっはっは、とまず、ヒラメが大声を挙げて笑い、マダムもクスクス笑い出し、自分も涙を流しながら赤面の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;態&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;てい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;になり、苦笑しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「うん、そのほうがいい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とヒラメは、いつまでもだらし無く笑いながら、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「女のいないところに行ったほうがよい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女のいないところ。しかし、この自分の阿呆くさいうわごとは、のちに到って、非常に陰惨に実現せられました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヨシ子は、何か、自分がヨシ子の身代りになって毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく、以前よりも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;尚&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;なお&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;いっそう、自分に対して、おろおろして、自分が何を言っても笑わず、そうしてろくに口もきけないような有様なので、自分もアパートの部屋の中にいるのが、うっとうしく、つい外へ出て、相変らず安い酒をあおる事になるのでした。しかし、あのジアールの一件以来、自分のからだがめっきり&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;痩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;や&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;せ細って、手足がだるく、漫画の仕事も怠けがちになり、ヒラメがあの時、見舞いとして置いて行ったお金（ヒラメはそれを、渋田の志です、と言っていかにもご自身から出たお金のようにして差出しましたが、これも故郷の兄たちからのお金のようでした。自分もその頃には、ヒラメの家から逃げ出したあの時とちがって、ヒラメのそんなもったい振った芝居を、おぼろげながら見抜く事が出来るようになっていましたので、こちらもずるく、全く気づかぬ振りをして、神妙にそのお金のお礼をヒラメに向って申し上げたのでしたが、しかし、ヒラメたちが、なぜ、そんなややこしいカラクリをやらかすのか、わかるような、わからないような、どうしても自分には、へんな気がしてなりませんでした）そのお金で、思い切ってひとりで南伊豆の温泉に行ってみたりなどしましたが、とてもそんな悠長な温泉めぐりなど出来る&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;柄&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;がら&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ではなく、ヨシ子を思えば&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;侘&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;わ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;びしさ限りなく、宿の部屋から山を眺めるなどの落ちついた心境には甚だ遠く、ドテラにも着換えず、お湯にもはいらず、外へ飛び出しては薄汚い茶店みたいなところに飛び込んで、焼酎を、それこそ浴びるほど飲んで、からだ具合いを一そう悪くして帰京しただけの事でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　東京に大雪の降った夜でした。自分は酔って銀座裏を、ここはお国を何百里、ここはお国を何百里、と小声で繰り返し繰り返し呟くように歌いながら、なおも降りつもる雪を靴先で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;蹴散&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けち&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;らして歩いて、突然、吐きました。それは自分の最初の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;喀血&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かっけつ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でした。雪の上に、大きい日の丸の旗が出来ました。自分は、しばらくしゃがんで、それから、よごれていない個所の雪を両手で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;掬&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;すく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;い取って、顔を洗いながら泣きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こうこは、どうこの細道じゃ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こうこは、どうこの細道じゃ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　哀れな童女の歌声が、幻聴のように、かすかに遠くから聞えます。不幸。この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;呆&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あき&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;自&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おのずか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は立って、取り敢えず何か適当な薬をと思い、近くの薬屋にはいって、そこの奥さんと顔を見合せ、瞬間、奥さんは、フラッシュを浴びたみたいに首をあげ眼を見はり、棒立ちになりました。しかし、その見はった眼には、驚愕の色も嫌悪の色も無く、ほとんど救いを求めるような、慕うような色があらわれているのでした。ああ、このひとも、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものなのだから、と思った時、ふと、その奥さんが&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;松葉杖&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まつばづえ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をついて危かしく立っているのに気がつきました。駈け寄りたい思いを抑えて、なおもその奥さんと顔を見合せているうちに涙が出て来ました。すると、奥さんの大きい眼からも、涙がぽろぽろとあふれて出ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それっきり、一言も口をきかずに、自分はその薬屋から出て、よろめいてアパートに帰り、ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝て、翌る日も、風邪気味だと嘘をついて一日一ぱい寝て、夜、自分の秘密の喀血がどうにも不安でたまらず、起きて、あの薬屋に行き、こんどは笑いながら、奥さんに、実に素直に今迄のからだ具合いを告白し、相談しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お酒をおよしにならなければ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分たちは、肉身のようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「アル中になっているかも知れないんです。いまでも飲みたい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いけません。私の主人も、テーベのくせに、菌を酒で殺すんだなんて言って、酒びたりになって、自分から寿命をちぢめました」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お薬を差し上げます。お酒だけは、およしなさい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　奥さん（未亡人で、男の子がひとり、それは千葉だかどこだかの医大にはいって、間もなく父と同じ病いにかかり、休学入院中で、家には中風の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;舅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しゅうと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が寝ていて、奥さん自身は五歳の折、小児&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;痲痺&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;まひ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;で片方の脚が全然だめなのでした）は、松葉杖をコトコトと突きながら、自分のためにあっちの棚、こっちの引出し、いろいろと薬品を取そろえてくれるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは、造血剤。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは、ヴィタミンの注射液。注射器は、これ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは、カルシウムの錠剤。胃腸をこわさないように、ジアスターゼ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは、何。これは、何、と五、六種の薬品の説明を愛情こめてしてくれたのですが、しかし、この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとって深すぎました。最後に奥さんが、これは、どうしても、なんとしてもお酒を飲みたくて、たまらなくなった時のお薬、と言って素早く紙に包んだ小箱。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　モルヒネの注射液でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　酒よりは、害にならぬと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、酒の酔いもさすがに不潔に感ぜられて来た矢先でもあったし、久し振りにアルコールというサタンからのがれる事の出来る喜びもあり、何の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;躊躇&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ちゅうちょ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も無く、自分は自分の腕に、そのモルヒネを注射しました。不安も、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;焦燥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;しょうそう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;も、はにかみも、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;綺麗&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きれい&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に除去せられ、自分は甚だ陽気な能弁家になるのでした。そうして、その注射をすると自分は、からだの衰弱も忘れて、漫画の仕事に精が出て、自分で画きながら噴き出してしまうほど珍妙な趣向が生れるのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一日一本のつもりが、二本になり、四本になった頃には、自分はもうそれが無ければ、仕事が出来ないようになっていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう可成りの中毒患者になってしまったような気がして来て、（自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前の事だものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした）その中毒の不安のため、かえって薬品をたくさん求めるようになったのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たのむ！　もう一箱。勘定は月末にきっと払いますから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ああ、いつでも自分の周囲には、何やら、濁って暗く、うさん臭い日蔭者の気配がつきまとうのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　奥さんは、顔を赤らめます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は、いよいよつけ込み、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「薬が無いと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤みたいなものなんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それじゃ、いっそ、ホルモン注射がいいでしょう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかで無ければ仕事が出来ないんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お酒は、いけません」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうでしょう？　僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一滴も飲まなかった。おかげで、からだの調子が、とてもいいんだ。僕だって、いつまでも、下手くそな漫画などをかいているつもりは無い、これから、酒をやめて、からだを直して、勉強して、きっと偉い絵画きになって見せる。いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、おねがい。キスしてあげようか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　奥さんは笑い出し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　コトコトと松葉杖の音をさせて、その薬品を棚から取り出し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ケチだなあ、まあ、仕方が無いや」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　家へ帰って、すぐに一本、注射をします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「痛くないんですか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヨシ子は、おどおど自分にたずねます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう？　さあ、仕事だ。仕事、仕事」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とはしゃぐのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　深夜、薬屋の戸をたたいた事もありました。寝巻姿で、コトコト松葉杖をついて出て来た奥さんに、いきなり抱きついてキスして、泣く真似をしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　奥さんは、黙って自分に一箱、手渡しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薬品もまた、焼酎同様、いや、それ以上に、いまわしく不潔なものだと、つくづく思い知った時には、既に自分は完全な中毒患者になっていました。真に、恥知らずの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;極&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;きわみ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でした。自分はその薬品を得たいばかりに、またも春画のコピイをはじめ、そうして、あの薬屋の不具の奥さんと文字どおりの醜関係をさえ結びました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮べ、自分も涙を流しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　地獄。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;賭&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;けるほどの決意を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;以&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もっ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;て、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の実情一さいを（女の事は、さすがに書けませんでしたが）告白する事にしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその焦燥と不安のために、かえって薬の量をふやしてしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今夜、十本、一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと、ひそかに覚悟を極めたその日の午後、ヒラメが、悪魔の勘で&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;嗅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;か&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;ぎつけたみたいに、堀木を連れてあらわれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「お前は、喀血したんだってな」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見た事も無いくらいに優しく&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;微笑&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ほほえ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みました。その優しい微笑が、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。そうして彼のその優しい微笑一つで、自分は完全に打ち破られ、葬り去られてしまったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、（それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした）自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言いつけに従うのでした。ヨシ子もいれて四人、自分たちは、ずいぶん永いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなった頃、森の中の大きい病院の、玄関に到着しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　サナトリアムとばかり思っていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は若い医師のいやに物やわらかな、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鄭重&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ていちょう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;な診察を受け、それから医師は、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「まあ、しばらくここで静養するんですね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と、まるで、はにかむように微笑して言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は着換の衣類をいれてある風呂敷包を自分に手渡し、それから黙って帯の間から注射器と使い残りのあの薬品を差し出しました。やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いや、もう要らない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。ヨシ子の謂わば「神の如き無智」に撃たれたのでしょうか。自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、或る病棟にいれられて、ガチャンと&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;鍵&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;かぎ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;をおろされました。脳病院でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現せられたわけでした。その病棟には、男の狂人ばかりで、看護人も男でしたし、女はひとりもいませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　神に問う。無抵抗は罪なりや？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;癈人&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;はいじん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;という刻印を額に打たれる事でしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人間、失格。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;紅&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;あか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;い睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、思いがけなく故郷の長兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、父が先月末に&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;胃潰瘍&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;いかいよう&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;でなくなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わぬ、生活の心配もかけないつもり、何もしなくていい、その代り、いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、お前が東京でしでかした事の後仕末は、だいたい渋田がやってくれた筈だから、それは気にしないでいい、とれいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まさに癈人。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;腑抜&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ふぬ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　長兄は自分に対する約束を正確に実行してくれました。自分の生れて育った町から汽車で四、五時間、南下したところに、東北には珍らしいほど暖かい海辺の温泉地があって、その村はずれの、間数は五つもあるのですが、かなり古い家らしく壁は&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;剥&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;は&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;げ落ち、柱は虫に食われ、ほとんど修理の仕様も無いほどの&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;茅屋&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ぼうおく&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を買いとって自分に与え、六十に近いひどい赤毛の醜い女中をひとり附けてくれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;喧嘩&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;げんか&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;みたいな事をはじめ、胸の病気のほうは一進一退、痩せたりふとったり、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;血痰&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;けったん&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;が出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買って来て、べつに自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも一向に眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから引続き三度も便所にかよったのでした。不審に堪えず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「癈人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いまは自分には、幸福も不幸もありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ、一さいは過ぎて行きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、&lt;strong class="SESAME_DOT"&gt;真理&lt;/strong&gt;らしく思われたのは、それだけでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ、一さいは過ぎて行きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="notes"&gt;［＃改頁］&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117854942294891?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117854942294891'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117854942294891'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_113117854942294891.html' title='人間失格（第三の手記　二）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-113117857677178766</id><published>2005-11-05T05:00:00.000+09:00</published><updated>2005-11-05T17:38:20.436+09:00</updated><title type='text'>人間失格（あとがき）</title><content type='html'>　　　あとがき&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない。けれども、この手記に出て来る京橋のスタンド・バアのマダムともおぼしき人物を、私はちょっと知っているのである。小柄で、顔色のよくない、眼が細く&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;吊&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;つ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;り上っていて、鼻の高い、美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの固い感じのひとであった。この手記には、どうやら、昭和五、六、七年、あの頃の東京の風景がおもに写されているように思われるが、私が、その京橋のスタンド・バアに、友人に連れられて二、三度、立ち寄り、ハイボールなど飲んだのは、れいの日本の「軍部」がそろそろ露骨にあばれはじめた昭和十年前後の事であったから、この手記を書いた男には、おめにかかる事が出来なかったわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　然るに、ことしの二月、私は千葉県船橋市に疎開している或る友人をたずねた。その友人は、私の大学時代の謂わば学友で、いまは某女子大の講師をしているのであるが、実は私はこの友人に私の身内の者の縁談を依頼していたので、その用事もあり、かたがた何か新鮮な海産物でも仕入れて私の家の者たちに食わせてやろうと思い、リュックサックを背負って船橋市へ出かけて行ったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　船橋市は、泥海に臨んだかなり大きいまちであった。新住民たるその友人の家は、その土地の人に所番地を告げてたずねても、なかなかわからないのである。寒い上に、リュックサックを背負った肩が痛くなり、私はレコードの提琴の音にひかれて、或る喫茶店のドアを押した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこのマダムに見覚えがあり、たずねてみたら、まさに、十年前のあの京橋の小さいバアのマダムであった。マダムも、私をすぐに思い出してくれた様子で、互いに&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;大袈裟&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;おおげさ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;に驚き、笑い、それからこんな時のおきまりの、れいの、空襲で焼け出されたお互いの経験を問われもせぬのに、いかにも自慢らしく語り合い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたは、しかし、かわらない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいえ、もうお婆さん。からだが、がたぴしです。あなたこそ、お若いわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「とんでもない、子供がもう三人もあるんだよ。きょうはそいつらのために買い出し」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　などと、これもまた久し振りで逢った者同志のおきまりの挨拶を交し、それから、二人に共通の知人のその後の消息をたずね合ったりして、そのうちに、ふとマダムは口調を改め、あなたは葉ちゃんを知っていたかしら、と言う。それは知らない、と答えると、マダムは、奥へ行って、三冊のノートブックと、三葉の写真を持って来て私に手渡し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「何か、小説の材料になるかも知れませんわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私は、ひとから押しつけられた材料でものを書けないたちなので、すぐにその場でかえそうかと思ったが、（三葉の写真、その奇怪さに就いては、はしがきにも書いて置いた）その写真に心をひかれ、とにかくノートをあずかる事にして、帰りにはまたここへ立ち寄りますが、何町何番地の何さん、女子大の先生をしているひとの家をご存じないか、と尋ねると、やはり新住民同志、知っていた。時たま、この喫茶店にもお見えになるという。すぐ近所であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その夜、友人とわずかなお酒を&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;汲&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;く&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;み交し、泊めてもらう事にして、私は朝まで一睡もせずに、れいのノートに読みふけった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その手記に書かれてあるのは、昔の話ではあったが、しかし、現代の人たちが読んでも、かなりの興味を持つに違いない。下手に私の筆を加えるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社にたのんで発表してもらったほうが、なお、有意義な事のように思われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　子供たちへの土産の海産物は、&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;干物&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;ひもの&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;だけ。私は、リュックサックを背負って友人の&lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;許&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;（&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;もと&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;）&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;を辞し、れいの喫茶店に立ち寄り、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「きのうは、どうも。ところで、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とすぐに切り出し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このノートは、しばらく貸していただけませんか」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ええ、どうぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このひとは、まだ生きているのですか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「泣きましたか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あのひとのお父さんが悪いのですよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何気なさそうに、そう言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「人間失格」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1952（昭和27）年10月30日発行&lt;br /&gt;　　　1985（昭和60）年１月30日100刷改版&lt;br /&gt;入力：細渕真弓&lt;br /&gt;校正：八巻美惠&lt;br /&gt;1999年1月1日公開&lt;br /&gt;2004年2月23日修正&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;［＃…］は、入力者による注を表す記号です。&lt;/li&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-113117857677178766?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117857677178766'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/113117857677178766'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/11/blog-post_113117857677178766.html' title='人間失格（あとがき）'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-111052589546758685</id><published>2005-03-10T08:08:00.000+09:00</published><updated>2005-03-11T16:56:16.546+09:00</updated><title type='text'>斜陽(1)</title><content type='html'>&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　　　　　一&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、&lt;BR&gt;「あ」&lt;BR&gt;　と&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;幽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かな叫び声をお挙げになった。&lt;BR&gt;「髪の毛？」&lt;BR&gt;　スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。&lt;BR&gt;「いいえ」&lt;BR&gt;　お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;直治&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なおじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;爵位&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しゃくい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;賤民&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;せんみん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にちかいのもいる。岩島なんてのは（と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて）あんなのは、まったく、新宿の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;遊廓&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ゆうかく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえか。こないだも、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;柳井&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;やない&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;（と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて）の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。高等&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;御&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;御乞食&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おんこじき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」&lt;BR&gt;　スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;皿&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;掬&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;縁&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふち&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;燕&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つばめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;尖端&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;せんたん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傍見&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わきみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いわゆる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可愛&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かわい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;らしく、それこそほんものみたいに見える。また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ。けれども、私は直治の言うような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽く&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;無雑作&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;むぞうさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にスプウンをあやつる事が出来ず、仕方なく、あきらめて、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法どおりの陰気ないただき方をしているのである。&lt;BR&gt;　スウプに限らず、お母さまの食事のいただき方は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すこぶ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る礼法にはずれている。お肉が出ると、ナイフとフオクで、さっさと全部小さく切りわけてしまって、それからナイフを捨て、フオクを右手に持ちかえ、その一きれ一きれをフオクに刺してゆっくり楽しそうに召し上がっていらっしゃる。また、骨つきのチキンなど、私たちがお皿を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心している時、お母さまは、平気でひょいと指先で骨のところをつまんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらっしゃる。そんな野蛮な仕草も、お母さまがなさると、可愛らしいばかりか、へんにエロチックにさえ見えるのだから、さすがにほんものは違ったものである。骨つきのチキンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;菜&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のハムやソセージなども、ひょいと指先でつまんで召し上る事さえ時たまある。&lt;BR&gt;「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」&lt;BR&gt;　とおっしゃった事もある。&lt;BR&gt;　本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;真似&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まね&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;してそれをやったら、それこそほんものの乞食の図になってしまいそうな気もするので我慢している。&lt;BR&gt;　弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;狐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きつね&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の嫁入りと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;鼠&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ねずみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傍&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;そば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;萩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はぎ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、&lt;BR&gt;「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;「お花を折っていらっしゃる」&lt;BR&gt;　と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、&lt;BR&gt;「おしっこよ」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。&lt;BR&gt;　けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;或&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;隅&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。&lt;BR&gt;　さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛？　とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。&lt;BR&gt;「塩辛かったかしら」&lt;BR&gt;　けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;罐詰&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かんづめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、なおも、はらはらしてそうたずねた。&lt;BR&gt;「お上手に出来ました」&lt;BR&gt;　お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;海苔&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;のり&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で包んだおむすびを手でつまんでおあがりになった。&lt;BR&gt;　私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;箸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を突込み、ぐしゃぐしゃにこわして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸して、まるで小鳥に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;餌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;えさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をやるような&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;工合&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぐあ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いにお口に押し込み、のろのろといただいているうちに、お母さまはもうお食事を全部すましてしまって、そっとお立ちになり、朝日の当っている壁にお背中をもたせかけ、しばらく黙って私のお食事の仕方を見ていらして、&lt;BR&gt;「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;「お母さまは？　おいしいの？」&lt;BR&gt;「そりゃもう。私は病人じゃないもの」&lt;BR&gt;「かず子だって、病人じゃないわ」&lt;BR&gt;「だめ、だめ」&lt;BR&gt;　お母さまは、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;淋&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しそうに笑って首を振った。&lt;BR&gt;　私は五年前に、肺病という事になって、寝込んだ事があったけれども、あれは、わがまま病だったという事を私は知っている。けれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本当に心配な、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;哀&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しい御病気だった。だのに、お母さまは、私の事ばかり心配していらっしゃる。&lt;BR&gt;「あ」&lt;BR&gt;　と私が言った。&lt;BR&gt;「なに？」&lt;BR&gt;　とこんどは、お母さまのほうでたずねる。&lt;BR&gt;　顔を見合せ、何か、すっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこりお笑いになった。&lt;BR&gt;　何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。私の胸に、いま出し抜けにふうっと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思い浮んで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろう。まさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。&lt;BR&gt;「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう？　どんな事？」&lt;BR&gt;「忘れたわ」&lt;BR&gt;「私の事？」&lt;BR&gt;「いいえ」&lt;BR&gt;「直治の事？」&lt;BR&gt;「そう」&lt;BR&gt;　と言いかけて、首をかしげ、&lt;BR&gt;「かも知れないわ」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　弟の直治は大学の中途で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が絶えてしまって、終戦になっても行先が不明で、お母さまは、もう直治には&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;逢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えないと覚悟している、とおっしゃっているけれども、私は、そんな、「覚悟」なんかした事は一度もない、きっと逢えるとばかり思っている。&lt;BR&gt;「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」&lt;BR&gt;　直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦労をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。&lt;BR&gt;「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;綺麗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きれい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で、やさしいものだわ。直治なんて、棒でたたいたって、死にやしない」&lt;BR&gt;　お母さまは笑って、&lt;BR&gt;「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」&lt;BR&gt;　と私をからかう。&lt;BR&gt;「あら、どうして？　私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ」&lt;BR&gt;「そうなの？　そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」&lt;BR&gt;「ええ」&lt;BR&gt;　と言いかけて、少し困った。悪漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらいたい。私は頗るまごついた。&lt;BR&gt;「意地わるね！」&lt;BR&gt;　と言ったら、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;下唇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;したくちびる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がぷるぷる震えて来て、涙が眼からあふれて落ちた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蛇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;へび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の話をしようかしら。その四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;垣&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;竹藪&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たけやぶ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;から、蛇の卵を十ばかり見つけて来たのである。&lt;BR&gt;　子供たちは、&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蝮&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まむし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の卵だ」&lt;BR&gt;　と言い張った。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、&lt;BR&gt;「焼いちゃおう」&lt;BR&gt;　と言うと、子供たちはおどり上がって喜び、私のあとからついて来る。&lt;BR&gt;　竹藪の近くに、木の葉や&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;柴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つずつ投げ入れた。卵は、なかなか燃えなかった。子供たちが、更に木の葉や小枝を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焔&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほのお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えそうもなかった。&lt;BR&gt;　下の農家の娘さんが、垣根の外から、&lt;BR&gt;「何をしていらっしゃるのですか？」&lt;BR&gt;　と笑いながらたずねた。&lt;BR&gt;「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」&lt;BR&gt;「大きさは、どれくらいですか？」&lt;BR&gt;「うずらの卵くらいで、真白なんです」&lt;BR&gt;「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;生&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の卵は、なかなか燃えませんよ」&lt;BR&gt;　娘さんは、さも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可笑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しそうに笑って、去った。&lt;BR&gt;　三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作ってやった。&lt;BR&gt;「さあ、みんな、拝むのよ」&lt;BR&gt;　私がしゃがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしゃがんで合掌したようであった。そうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆっくりのぼって来ると、石段の上の、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;藤棚&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふじだな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蔭&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かげ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にお母さまが立っていらして、&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可哀&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かわい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;そうな事をするひとね」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;「蝮かと思ったら、ただの蛇だったの。けれど、ちゃんと埋葬してやったから、大丈夫」&lt;BR&gt;　とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったかなと思った。&lt;BR&gt;　お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃる。お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;枕元&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まくらもと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に細い黒い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;紐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひも&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が落ちているのを見て、何気なく拾おうとなさったら、それが蛇だった。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬよう、こらえて黙っていらしたという。私たちも、その場に居合せていたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。&lt;BR&gt;　けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;御逝去&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ごせいきょ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の時は、もう十九にもなっていたのだ。もう子供では無かったのだから、十年&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;経&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;た&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っても、その時の記憶はいまでもはっきりしていて、間違いは無い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;筈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だが、私がお供えの花を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;剪&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;き&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;りに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池の岸のつつじのところに立ちどまって、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がまきついていた。すこしおどろいて、つぎの山吹の花枝を折ろうとすると、その枝にも、まきついていた。隣りの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;木犀&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;もくせい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にも、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;若楓&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わかかえで&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にも、えにしだにも、藤にも、桜にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのである。けれども私には、そんなにこわく思われなかった。蛇も、私と同様にお父上の逝去を悲しんで、穴から&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;這&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;は&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;い出てお父上の霊を拝んでいるのであろうというような気がしただけであった。そうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそっとお知らせしたら、お母さまは落ちついて、ちょっと首を傾けて何か考えるような御様子をなさったが、べつに何もおっしゃりはしなかった。&lt;BR&gt;　けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった。蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;畏怖&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いふ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の情をお持ちになってしまったようだ。&lt;BR&gt;　蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;祟&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。&lt;BR&gt;　そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日は、とてもなごやかないいお天気だったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;籐椅子&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;とういす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をはこび、そこで編物を仕様と思って、籐椅子を持ってお庭に降りたら、庭石の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;笹&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ささ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のところに蛇がいた。おお、いやだ。私はただそう思っただけで、それ以上深く考える事もせず、籐椅子を持って引返して縁側にあがり、縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかかった。午後になって、私はお庭の隅の御堂の奥にしまってある蔵書の中から、ローランサンの画集を取り出して来ようと思って、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆっくりゆっくり這っている。朝の蛇と同じだった。ほっそりした、上品な蛇だった。私は、女蛇だ、と思った。彼女は、芝生を静かに横切って野ばらの蔭まで行くと、立ちどまって首を上げ、細い焔のような舌をふるわせた。そうして、あたりを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;眺&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なが&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;めるような&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;恰好&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かっこう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;物憂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ものう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;げにうずくまった。私はその時にも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、やがて御堂に行って画集を持ち出し、かえりにさっきの蛇のいたところをそっと見たが、もういなかった。&lt;BR&gt;　夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた。&lt;BR&gt;　お母さまもそれを見つけ、&lt;BR&gt;「あの蛇は？」&lt;BR&gt;　とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、&lt;BR&gt;「卵の母親？」&lt;BR&gt;　と口に出して言ってしまった。&lt;BR&gt;「そう、そうよ」&lt;BR&gt;　お母さまのお声は、かすれていた。&lt;BR&gt;　私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;見護&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みまも&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;った。石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、かきつばたのほうに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;這入&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って行った。&lt;BR&gt;「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」&lt;BR&gt;　と私が小声で申し上げたら、お母さまは、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;溜息&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ためいき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をついてくたりと椅子に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;坐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;り込んでおしまいになって、&lt;BR&gt;「そうでしょう？　卵を捜しているのですよ。可哀そうに」&lt;BR&gt;　と沈んだ声でおっしゃった。&lt;BR&gt;　私は仕方なく、ふふと笑った。&lt;BR&gt;　夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの美しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。&lt;BR&gt;　私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;身悶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みもだ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えをした。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　私たちが、東京の西片町のお家を捨て、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;伊豆&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のこの、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった。お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;駄目&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;だめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だ、家を売るより&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;他&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。&lt;BR&gt;　十一月の末に叔父さまから速達が来て、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;駿豆&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すんず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;鉄道の沿線に河田&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;子爵&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ししゃく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;乞&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;う、という文面で、&lt;BR&gt;「お母さま、おいでなさる？」&lt;BR&gt;　と私がたずねると、&lt;BR&gt;「だって、お願いしていたのだもの」&lt;BR&gt;　と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;翌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る日、もとの運転手の松山さんにお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;伴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;とも&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。&lt;BR&gt;「きめましたよ」&lt;BR&gt;　かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;一言&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひとこと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;おっしゃった。&lt;BR&gt;「きめたって、何を？」&lt;BR&gt;「全部」&lt;BR&gt;「だって」&lt;BR&gt;　と私はおどろき、&lt;BR&gt;「どんなお家だか、見もしないうちに、……」&lt;BR&gt;　お母さまは机の上に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;片肘&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かたひじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、&lt;BR&gt;「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」&lt;BR&gt;　とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。&lt;BR&gt;「そうね」&lt;BR&gt;　と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;合槌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あいづち&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を打ち、&lt;BR&gt;「それでは、かず子も眼をつぶるわ」&lt;BR&gt;　二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。&lt;BR&gt;　それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;指図&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さしず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである。&lt;BR&gt;「どうなさったの？　伊豆へ行きたくなくなったの？」&lt;BR&gt;　と思い切って、少しきつくお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;訊&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ねしても、&lt;BR&gt;「いいえ」&lt;BR&gt;　とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。&lt;BR&gt;　十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;藁&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焚火&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たきび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;這&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;は&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、&lt;BR&gt;「お母さま！　お顔色がお悪いわ」&lt;BR&gt;　と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、&lt;BR&gt;「なんでもないの」&lt;BR&gt;　とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。&lt;BR&gt;　その夜、お&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蒲団&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふとん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。&lt;BR&gt;　お母さまは、おや？　と思ったくらいに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;老&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;けた弱々しいお声で、&lt;BR&gt;「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」&lt;BR&gt;　と意外な事をおっしゃった。&lt;BR&gt;　私は、どきんとして、&lt;BR&gt;「かず子がいなかったら？」&lt;BR&gt;　と思わずたずねた。&lt;BR&gt;　お母さまは、急にお泣きになって、&lt;BR&gt;「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」&lt;BR&gt;　と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。&lt;BR&gt;　お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;烈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はげ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かった。お父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなかにいれてお母さまの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;許&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;もと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;へ帰って来た時も、そして、赤ちゃんが病院で死んで生れた時も、それから私が病気になって寝込んでしまった時も、また、直治が悪い事をした時も、お母さまは、決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかった。お父上がお亡くなりになって十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも変らない、のんきな、優しいお母さまだった。そうして、私たちも、いい気になって甘えて育って来たのだ。けれども、お母さまには、もうお金が無くなってしまった。みんな私たちのために、私と直治のために、みじんも惜しまずにお使いになってしまったのだ。そうしてもう、この永年住みなれたお家から出て行って、伊豆の小さい山荘で私とたった二人きりで、わびしい生活をはじめなければならなくなった。もしお母さまが意地悪でケチケチして、私たちを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;叱&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って、そうして、こっそりご自分だけのお金をふやす事を工夫なさるようなお方であったら、どんなに世の中が変っても、こんな、死にたくなるようなお気持におなりになる事はなかったろうに、ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の厳粛とは、こんな時の感じを言うのであろうか、身動き一つ出来ない気持で、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;仰向&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あおむけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に寝たまま、私は石のように&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;凝&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;じ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っとしていた。&lt;BR&gt;　翌る日、お母さまは、やはりお顔色が悪く、なお何やらぐずぐずして、少しでも永くこのお家にいらっしゃりたい様子であったが、和田の叔父さまが見えられて、もう荷物はほとんど発送してしまったし、きょう伊豆に出発、とお言いつけになったので、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;挨拶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あいさつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を申し上げるお君や、出入のひとたちに無言でお会釈なさって、叔父さまと私と三人、西片町のお家を出た。&lt;BR&gt;　汽車は割に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;空&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;す&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いていて、三人とも腰かけられた。汽車の中では、叔父さまは非常な&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;上機嫌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;じょうきげん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;でうたいなど&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;唸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っていらっしゃったが、お母さまはお顔色が悪く、うつむいて、とても寒そうにしていらした。三島で駿豆鉄道に乗りかえ、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向って、ゆるやかな坂道をのぼって行くと、小さい部落があって、その部落のはずれに、支那ふうの、ちょっとこった山荘があった。&lt;BR&gt;「お母さま、思ったよりもいい所ね」&lt;BR&gt;　と私は息をはずませて言った。&lt;BR&gt;「そうね」&lt;BR&gt;　とお母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな眼つきをなさった。&lt;BR&gt;「だいいち、空気がいい。清浄な空気です」&lt;BR&gt;　と叔父さまは、ご自慢なさった。&lt;BR&gt;「本当に」&lt;BR&gt;　とお母さまは&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;微笑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほほえ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;まれて、&lt;BR&gt;「おいしい。ここの空気は、おいしい」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　そうして、三人で笑った。&lt;BR&gt;　玄関にはいってみると、もう東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいになっていた。&lt;BR&gt;「次には、お座敷からの眺めがよい」&lt;BR&gt;　叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引っぱって行って坐らせた。&lt;BR&gt;　午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蜜柑畑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みかんばたけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がひろがり、それから村道があって、その向うは水田で、それからずっと向うに松林があって、その松林の向うに、海が見える。海は、こうしてお座敷に坐っていると、ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた。&lt;BR&gt;「やわらかな景色ねえ」&lt;BR&gt;　とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。&lt;BR&gt;「空気のせいかしら。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;陽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の光が、まるで東京と違うじゃないの。光線が絹ごしされているみたい」&lt;BR&gt;　と私は、はしゃいで言った。&lt;BR&gt;　十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;附&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いた来客用の洋間が一間、それだけの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;間数&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まかず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だけれども、私たち二人、いや、直治が帰って三人になっても、別に窮屈でないと思った。&lt;BR&gt;　叔父さまは、この部落でたった一軒だという宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、やがてとどけられたお弁当を、お座敷にひろげて御持参のウイスキイをお飲みになり、この山荘の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語って、大陽気であったが、お母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸をおつけになっただけで、やがて、あたりが薄暗くなって来た頃、&lt;BR&gt;「すこし、このまま寝かして」&lt;BR&gt;　と小さい声でおっしゃった。&lt;BR&gt;　私がお荷物の中からお蒲団を出して、寝かせてあげ、何だかひどく気がかりになって来たので、お荷物から体温計を捜し出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった。&lt;BR&gt;　叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。&lt;BR&gt;「お母さま！」&lt;BR&gt;　とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。&lt;BR&gt;　私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまが、お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかった。泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。もう私たちは、何も要らない。私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終ったのだと思った。&lt;BR&gt;　二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;仙台平&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;せんだいひら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;袴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はかま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を着け、白足袋をはいておられた。&lt;BR&gt;　ご診察が終って、&lt;BR&gt;「肺炎になるかも知れませんでございます。けれども、肺炎になりましても、御心配はございません」&lt;BR&gt;　と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。&lt;BR&gt;　翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。和田の叔父さまは、私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬようになったら、東京へ電報を打つように、と言い残して、ひとまずその日に帰京なされた。&lt;BR&gt;　私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめた。お母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになって、それから、首を振った。&lt;BR&gt;　お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。&lt;BR&gt;「入院したほうが、……」&lt;BR&gt;　と私が申し上げたら、&lt;BR&gt;「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」&lt;BR&gt;　と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いわゆる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;その強い注射をしてお帰りになられた。&lt;BR&gt;　けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;真赤&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まっか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、お母さまは笑って、&lt;BR&gt;「名医かも知れないわ」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　熱は七度にさがっていた。私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟にしてお母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;茶碗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ちゃわん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に半分ほどいただいた。&lt;BR&gt;　あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;効&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;き&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;くのは当然、というようなお顔で深くうなずき、ていねいにご診察なさって、そうして私のほうに向き直り、&lt;BR&gt;「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」&lt;BR&gt;　と、やはり、へんな言いかたをなさるので、私は噴き出したいのを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;怺&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えるのに骨が折れた。&lt;BR&gt;　先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、お母さまは、お床の上にお坐りになっていらして、&lt;BR&gt;「本当に名医だわ。私は、もう、病気じゃない」&lt;BR&gt;　と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりとひとりごとのようにおっしゃった。&lt;BR&gt;「お母さま、障子をあけましょうか。雪が降っているのよ」&lt;BR&gt;　花びらのような大きい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;牡丹雪&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぼたんゆき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が、ふわりふわり降りはじめていたのだ。私は、障子をあけ、お母さまと並んで坐り、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;硝子戸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ガラスど&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;越しに伊豆の雪を眺めた。&lt;BR&gt;「もう病気じゃない」&lt;BR&gt;　と、お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、&lt;BR&gt;「こうして坐っていると、以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;間際&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まぎわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;になって、伊豆へ来るのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまたの。西片町のあのお家に、一日でも半日でも永くいたかったの。汽車に乗った時には、半分死んでいるような気持で、ここに着いた時も、はじめちょっと楽しいような気分がしたけど、薄暗くなったら、もう東京がこいしくて、胸がこげるようで、気が遠くなってしまったの。普通の病気じゃないんです。神さまが私をいちどお殺しになって、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて下さったのだわ」&lt;BR&gt;　それから、きょうまで、私たち二人きりの山荘生活が、まあ、どうやら事も無く、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;安穏&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あんのん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;につづいて来たのだ。部落の人たちも私たちに親切にしてくれた。ここへ引越して来たのは、去年の十二月、それから、一月、二月、三月、四月のきょうまで、私たちはお食事のお支度の他は、たいていお縁側で編物したり、支那間で本を読んだり、お茶をいただいたり、ほとんど世の中と離れてしまったような生活をしていたのである。二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;溜息&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ためいき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の出るほど美しかった。そうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;匂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;にお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いがお部屋にすっと流れて来た。三月の終りには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の花びらが吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;濡&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぬ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;れた。四月になって、私とお母さまがお縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計画であった。お母さまもお手伝いしたいとおっしゃる。ああ、こうして書いてみると、いかにも私たちは、いつかお母さまのおっしゃったように、いちど死んで、違う私たちになってよみがえったようでもあるが、しかし、イエスさまのような復活は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょせん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、人間には出来ないのではなかろうか。お母さまは、あんなふうにおっしゃったけれども、それでもやはり、スウプを一さじ吸っては、直治を思い、あ、とお叫びになる。そうして私の過去の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傷痕&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きずあと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;も、実は、ちっともなおっていはしないのである。&lt;BR&gt;　ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだ。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蝮&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まむし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。&lt;BR&gt;　恋、と書いたら、あと、書けなくなった。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「斜陽」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1950（昭和25）年11月20日発行&lt;br /&gt;　　　1994（平成4）年6月5日93刷&lt;br /&gt;※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。（青空文庫）&lt;br /&gt;入力：SAME SIDE&lt;br /&gt;校正：細渕紀子&lt;br /&gt;2003年1月23日作成&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。 &lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-111052589546758685?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052589546758685'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052589546758685'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/03/1.html' title='斜陽(1)'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-111052602059089649</id><published>2005-03-10T07:08:00.000+09:00</published><updated>2005-03-11T16:55:54.476+09:00</updated><title type='text'>斜陽(2)</title><content type='html'>&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　　　　　二&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蛇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;へび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の卵の事があってから、十日ほど経ち、不吉な事がつづいて起り、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、そのお命を薄くさせた。&lt;BR&gt;　私が、火事を起しかけたのだ。&lt;BR&gt;　私が火事を起す。私の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;生涯&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょうがい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にそんなおそろしい事があろうとは、幼い時から今まで、一度も夢にさえ考えた事が無かったのに。&lt;BR&gt;　お火を粗末にすれば火事が起る、というきわめて当然の事にも、気づかないほどの私はあの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いわゆる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;「おひめさま」だったのだろうか。&lt;BR&gt;　夜中にお手洗いに起きて、お玄関の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;衝立&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ついたて&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傍&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;そば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;まで行くと、お&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;風呂場&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふろば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のほうが明るい。何気なく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;覗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;のぞ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いてみると、お風呂場の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;硝子戸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ガラスど&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が真赤で、パチパチという音が聞える。小走りに走って行ってお風呂場のくぐり戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどの傍に積み上げてあった&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;薪&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の山が、すごい火勢で燃えている。&lt;BR&gt;　庭つづきの下の農家に飛んで行き、力一ぱいに戸を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;叩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いて、&lt;BR&gt;「中井さん！　起きて下さい、火事です！」&lt;BR&gt;　と叫んだ。&lt;BR&gt;　中井さんは、もう、寝ていらっしゃったらしかったが、&lt;BR&gt;「はい、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;直&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;す&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ぐ行きます」&lt;BR&gt;　と返事して、私が、おねがいします、早くおねがいします、と言っているうちに、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;浴衣&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ゆかた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の寝巻のままでお家から飛び出て来られた。&lt;BR&gt;　二人で火の傍に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;駈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;か&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;け戻り、バケツでお池の水を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;汲&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;く&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;んでかけていると、お座敷の廊下のほうから、お母さまの、ああっ、という叫びが聞えた。私はバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上って、&lt;BR&gt;「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして」&lt;BR&gt;　と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、お寝床に連れて行って寝かせ、また火のところに飛んでかえって、こんどはお風呂の水を汲んでは中井さんに手渡し、中井さんはそれを薪の山にかけたが火勢は強く、とてもそんな事では消えそうもなかった。&lt;BR&gt;「火事だ。火事だ。お別荘が火事だ」&lt;BR&gt;　という声が下のほうから聞えて、たちまち四五人の村の人たちが、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;垣根&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かきね&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をこわして、飛び込んでいらした。そうして、垣根の下の、用水の水を、リレー式にバケツで運んで、二、三分のあいだに消しとめて下さった。もう少しで、お風呂場の屋根に燃え移ろうとするところであった。&lt;BR&gt;　よかった、と思ったとたんに、私はこの火事の原因に気づいてぎょっとした。本当に、私はその時はじめて、この火事騒ぎは、私が夕方、お風呂のかまどの燃え残りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の山の傍に置いた事から起ったのだ、という事に気づいたのだ。そう気づいて、泣き出したくなって立ちつくしていたら、前のお家の西山さんのお嫁さんが垣根の外で、お風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;声高&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こわだか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に話すのが聞えた。&lt;BR&gt;　村長の藤田さん、二宮巡査、警防団長の大内さんなどが、やって来られて、藤田さんは、いつものお優しい笑顔で、&lt;BR&gt;「おどろいたでしょう。どうしたのですか？」&lt;BR&gt;　とおたずねになる。&lt;BR&gt;「私が、いけなかったのです。消したつもりの薪を、……」&lt;BR&gt;　と言いかけて、自分があんまりみじめで、涙がわいて出て、それっきりうつむいて黙った。警察に連れて行かれて、罪人になるのかも知れない、とそのとき思った。はだしで、お寝巻のままの、取乱した自分の姿が急にはずかしくなり、つくづく、落ちぶれたと思った。&lt;BR&gt;「わかりました。お母さんは？」&lt;BR&gt;　と藤田さんは、いたわるような口調で、しずかにおっしゃる。&lt;BR&gt;「お座敷にやすませておりますの。ひどくおどろいていらして、……」&lt;BR&gt;「しかし、まあ」&lt;BR&gt;　とお若い二宮巡査も、&lt;BR&gt;「家に火がつかなくて、よかった」&lt;BR&gt;　となぐさめるようにおっしゃる。&lt;BR&gt;　すると、そこへ下の農家の中井さんが、服装を改めて出直して来られて、&lt;BR&gt;「なにね、薪がちょっと燃えただけなんです。ボヤ、とまでも行きません」&lt;BR&gt;　と息をはずませて言い、私のおろかな過失をかばって下さる。&lt;BR&gt;「そうですか。よくわかりました」&lt;BR&gt;　と村長の藤田さんは二度も三度もうなずいて、それから二宮巡査と何か小声で相談をなさっていらしたが、&lt;BR&gt;「では、帰りますから、どうぞ、お母さんによろしく」&lt;BR&gt;　とおっしゃって、そのまま、警防団長の大内さんやその他の方たちと一緒にお帰りになる。&lt;BR&gt;　二宮巡査だけ、お残りになって、そうして私のすぐ前まで歩み寄って来られて、呼吸だけのような低い声で、&lt;BR&gt;「それではね、今夜の事は、べつに、とどけない事にしますから」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　二宮巡査がお帰りになったら、下の農家の中井さんが、&lt;BR&gt;「二宮さんは、どう言われました？」&lt;BR&gt;　と、実に心配そうな、緊張のお声でたずねる。&lt;BR&gt;「とどけないって、おっしゃいました」&lt;BR&gt;　と私が答えると、垣根のほうにまだ近所のお方がいらして、その私の返事を聞きとった様子で、そうか、よかった、よかった、と言いながら、ぞろぞろ引上げて行かれた。&lt;BR&gt;　中井さんも、おやすみなさい、を言ってお帰りになり、あとには私ひとり、ぼんやり焼けた薪の山の傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の気配であった。&lt;BR&gt;　風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;逢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;うのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝手に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。&lt;BR&gt;　夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;椅子&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、疲れ切ったようにして腰かけていらした。私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蒼&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かった。&lt;BR&gt;　私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。&lt;BR&gt;　しばらくしてお母さまが、&lt;BR&gt;「なんでもない事だったのね。燃やすための薪だもの」&lt;BR&gt;　とおっしゃった。&lt;BR&gt;　私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;機&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おり&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にかないて&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;語&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;言&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ことば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;は&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;銀&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぎん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;彫刻物&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほりもの&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;金&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;林檎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;りんご&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;嵌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;は&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;めたるが&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;如&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ごと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;し、という聖書の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;箴言&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しんげん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。ゆうべの事は、ゆうべの事。もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;眺&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なが&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;め、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。&lt;BR&gt;　朝のお食事を軽くすましてから、私は、焼けた薪の山の整理にとりかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;咲&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;さんが、&lt;BR&gt;「どうしたのよ？　どうしたのよ？　いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いったい、どうしたのよ？」&lt;BR&gt;　と言いながら庭の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;枝折戸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しおりど&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;から小走りに走ってやって来られて、そうしてその眼には、涙が光っていた。&lt;BR&gt;「すみません」&lt;BR&gt;　と私は小声でわびた。&lt;BR&gt;「すみませんも何も。それよりも、お嬢さん、警察のほうは？」&lt;BR&gt;「いいんですって」&lt;BR&gt;「まあよかった」&lt;BR&gt;　と、しんから嬉しそうな顔をして下さった。&lt;BR&gt;　私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お礼とお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;詫&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;びをしたらいいか、相談した。お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってお詫びまわりをすべき家々を教えて下さった。&lt;BR&gt;「でも、お嬢さんがおひとりで&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;廻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;るのがおいやだったら、私も一緒について行ってあげますよ」&lt;BR&gt;「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう？」&lt;BR&gt;「ひとりで行ける？　そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」&lt;BR&gt;「ひとりで行くわ」&lt;BR&gt;　それからお咲さんは、焼跡の整理を少し手伝って下さった。&lt;BR&gt;　整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百円紙幣を一枚ずつ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;美濃紙&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みのがみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。&lt;BR&gt;　まず一ばんに役場へ行った。村長の藤田さんはお留守だったので、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;受附&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うけつけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の娘さんに紙包を差し出し、&lt;BR&gt;「昨夜は、申しわけない事を致しました。これから、気をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく」&lt;BR&gt;　とお詫びを申し上げた。&lt;BR&gt;　それから、警防団長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄関に出て来られて、私を見て黙って悲しそうに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;微笑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほほえ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;んでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、&lt;BR&gt;「ゆうべは、ごめんなさい」&lt;BR&gt;　と言うのが、やっとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて来て、顔がだめになったので、いったんお家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようとして玄関で&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;靴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をはいていると、お母さまが、出ていらして、&lt;BR&gt;「まだ、どこかへ行くの？」&lt;BR&gt;　とおっしゃる。&lt;BR&gt;「ええ、これからよ」&lt;BR&gt;　私は顔を挙げないで答えた。&lt;BR&gt;「ご苦労さまね」&lt;BR&gt;　しんみりおっしゃった。&lt;BR&gt;　お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまわる事が出来た。&lt;BR&gt;　区長さんのお家に行ったら、区長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかえって向うで涙ぐんでおしまいになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、とおっしゃってくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、それからご近所のお家を廻って、やはり皆さまから、同情され、なぐさめられた。ただ、前のお家の西山さんのお嫁さん、といっても、もう四十くらいのおばさんだが、そのひとにだけは、びしびし&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;叱&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;られた。&lt;BR&gt;「これからも気をつけて下さいよ。宮様だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見ていたんです。子供が二人で暮しているみたいなんだから、いままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ。本当にこれからは、気をつけて下さいよ。ゆうべだって、あんた、あれで風が強かったら、この村全部が燃えたのですよ」&lt;BR&gt;　この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言ってかばって下さったのに、垣根の外で、風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と大きい声で言っていらしたひとである。けれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、真実を感じた。本当にそのとおりだと思った。少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談をおっしゃって私をなぐさめて下さったが、しかし、あの時に風が強かったら、西山さんのお嫁さんのおっしゃるとおり、この村全体が焼けたのかも知れない。そうなったら私は、死んでおわびしたっておっつかない。私が死んだら、お母さまも生きては、いらっしゃらないだろうし、また亡くなったお父上のお名前をけがしてしまう事にもなる。いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗にほろびたい。火事を出してそのお詫びに死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死に切れまい。とにかく、もっと、しっかりしなければならぬ。&lt;BR&gt;　私は翌日から、畑仕事に精を出した。下の農家の中井さんの娘さんが、時々お手伝いして下さった。火事を出すなどという醜態を演じてからは、私のからだの血が何だか少し赤黒くなったような気がして、その前には、私の胸に意地悪の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蝮&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まむし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が住み、こんどは血の色まで少し変ったのだから、いよいよ野性の田舎娘になって行くような気分で、お母さまとお縁側で編物などをしていても、へんに窮屈で息苦しく、かえって畑へ出て、土を掘り起したりしているほうが気楽なくらいであった。&lt;BR&gt;　筋肉労働、というのかしら。このような力仕事は、私にとっていまがはじめてではない。私は戦争の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。いま畑にはいて出ている地下足袋も、その時、軍のほうから配給になったものである。地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。&lt;BR&gt;&lt;br /&gt;&lt;DIV class=jisage_2 style="MARGIN-LEFT: 2em"&gt;昨年は、何も無かった。&lt;BR&gt;一昨年は、何も無かった。&lt;BR&gt;その前のとしも、何も無かった。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;　そんな面白い詩が、終戦直後の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;或&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。けれども、私は、やはり自分勝手なのであろうか。私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思えない。ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すっかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、ヨイトマケをやって生きて行こうと思う事があるくらいなのだ。&lt;BR&gt;　戦局がそろそろ絶望になって来た頃、軍服みたいなものを着た男が、西片町のお家へやって来て、私に徴用の紙と、それから労働の日割を書いた紙を渡した。日割の紙を見ると、私はその翌日から一日置きに立川の奧の山へかよわなければならなくなっていたので、思わず私の眼から涙があふれた。&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;代人&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;だいにん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;では、いけないのでしょうか」&lt;BR&gt;　涙がとまらず、すすり泣きになってしまった。&lt;BR&gt;「軍から、あなたに徴用が来たのだから、必ず、本人でなければいけない」&lt;BR&gt;　とその男は、強く答えた。&lt;BR&gt;　私は行く決心をした。&lt;BR&gt;　その翌日は雨で、私たちは立川の山の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;麓&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふもと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に整列させられ、まず将校のお説教があった。&lt;BR&gt;「戦争には、必ず勝つ」&lt;BR&gt;　と冒頭して、&lt;BR&gt;「戦争には必ず勝つが、しかし、皆さんが軍の命令通りに仕事しなければ、作戦に支障を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;来&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;し、沖縄のような結果になる。必ず、言われただけの仕事は、やってほしい。それから、この山にも、スパイが&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;這入&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っているかも知れないから、お互いに注意すること。皆さんもこれからは、兵隊と同じに、陣地の中へ這入って仕事をするのであるから、陣地の様子は、絶対に、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;他言&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たごん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しないように、充分に注意してほしい」&lt;BR&gt;　と言った。&lt;BR&gt;　山には雨が煙り、男女とりまぜて五百ちかい隊員が、雨に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;濡&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぬ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;れながら立ってその話を拝聴しているのだ。隊員の中には、国民学校の男生徒女生徒もまじっていて、みな寒そうな泣きべその顔をしていた。雨は私のレインコートをとおして、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;上衣&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うわぎ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にしみて来て、やがて&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;肌着&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はだぎ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;までぬらしたほどであった。&lt;BR&gt;　その日は一日、モッコかつぎをして、帰りの電車の中で、涙が出て来て仕様が無かったが、その次の時には、ヨイトマケの綱引だった。そうして、私にはその仕事が一ばん面白かった。&lt;BR&gt;　二度、三度、山へ行くうちに、国民学校の男生徒たちが私の姿を、いやにじろじろ見るようになった。或る日、私がモッコかつぎをしていると、男生徒が二三人、私とすれちがって、それから、そのうちの一人が、&lt;BR&gt;「あいつが、スパイか」&lt;BR&gt;　と小声で言ったのを聞き、私はびっくりしてしまった。&lt;BR&gt;「なぜ、あんな事を言うのかしら」&lt;BR&gt;　と私は、私と並んでモッコをかついで歩いている若い娘さんにたずねた。&lt;BR&gt;「外人みたいだから」&lt;BR&gt;　若い娘さんは、まじめに答えた。&lt;BR&gt;「あなたも、あたしをスパイだと思っていらっしゃる？」&lt;BR&gt;「いいえ」&lt;BR&gt;　こんどは少し笑って答えた。&lt;BR&gt;「私、日本人ですわ」&lt;BR&gt;　と言って、その自分の言葉が、われながら&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;馬鹿&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ばか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;らしいナンセンスのように思われて、ひとりでくすくす笑った。&lt;BR&gt;　或るお天気のいい日に、私は朝から男の人たちと一緒に丸太はこびをしていると、監視当番の若い将校が顔をしかめて、私を指差し、&lt;BR&gt;「おい、君。君は、こっちへ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;来給&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きたま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;え」&lt;BR&gt;　と言って、さっさと松林のほうへ歩いて行き、私が不安と恐怖で胸をどきどきさせながら、その後について行くと、林の奧に製材所から来たばかりの板が積んであって、将校はその前まで行って立ちどまり、くるりと私のほうに向き直って、&lt;BR&gt;「毎日、つらいでしょう。きょうは一つ、この材木の見張番をしていて下さい」&lt;BR&gt;　と白い歯を出して笑った。&lt;BR&gt;「ここに、立っているのですか？」&lt;BR&gt;「ここは、涼しくて静かだから、この板の上でお昼寝でもしていて下さい。もし、退屈だったら、これは、お読みかも知れないけど」&lt;BR&gt;　と言って、上衣のポケットから小さい文庫本を取り出し、てれたように、板の上にほうり、&lt;BR&gt;「こんなものでも、読んでいて下さい」&lt;BR&gt;　文庫本には、「トロイカ」と記されていた。&lt;BR&gt;　私はその文庫本を取り上げ、&lt;BR&gt;「ありがとうございます。うちにも、本のすきなのがいまして、いま、南方に行っていますけど」&lt;BR&gt;　と申し上げたら、聞き違いしたらしく、&lt;BR&gt;「ああ、そう。あなたの御主人なのですね。南方じゃあ、たいへんだ」&lt;BR&gt;　と首を振ってしんみり言い、&lt;BR&gt;「とにかく、きょうはここで見張番という事にして、あなたのお弁当は、あとで自分が持って来てあげますから、ゆっくり、休んでいらっしゃい」&lt;BR&gt;　と言い捨て、急ぎ足で帰って行かれた。&lt;BR&gt;　私は、材木に腰かけて、文庫本を読み、半分ほど読んだ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頃&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ころ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、あの将校が、こつこつと靴の音をさせてやって来て、&lt;BR&gt;「お弁当を持って来ました。おひとりで、つまらないでしょう」&lt;BR&gt;　と言って、お弁当を草原の上に置いて、また大急ぎで引返して行かれた。&lt;BR&gt;　私は、お弁当をすましてから、こんどは、材木の上に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;這&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;は&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;い上って、横になって本を読み、全部読み終えてから、うとうととお昼寝をはじめた。&lt;BR&gt;　眼がさめたのは、午後の三時すぎだった。私は、ふとあの若い将校を、前にどこかで見かけた事があるような気がして来て、考えてみたが、思い出せなかった。材木から降りて、髪を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;撫&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;な&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;でつけていたら、また、こつこつと靴の音が聞えて来て、&lt;BR&gt;「やあ、きょうは御苦労さまでした。もう、お帰りになってよろしい」&lt;BR&gt;　私は将校のほうに走り寄って、そうして文庫本を差し出し、お礼を言おうと思ったが、言葉が出ず、黙って将校の顔を見上げ、二人の眼が合った時、私の眼からぽろぽろ涙が出た。すると、その将校の眼にも、きらりと涙が光った。&lt;BR&gt;　そのまま黙っておわかれしたが、その若い将校は、それっきりいちども、私たちの働いているところに顔を見せず、私は、あの日に、たった一日遊ぶ事が出来ただけで、それからは、やはり一日置きに立川の山で、苦しい作業をした。お母さまは、私のからだを、しきりに心配して下さったが、私はかえって丈夫になり、いまではヨイトマケ商売にもひそかに自信を持っているし、また、畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女になった。&lt;BR&gt;　戦争の事は、語るのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重なる経験談」など語ってしまったが、しかし、私の戦争の追憶の中で、少しでも語りたいと思うのは、ざっとこれくらいの事で、あとはもう、いつかのあの詩のように、&lt;BR&gt;&lt;br /&gt;&lt;DIV class=jisage_2 style="MARGIN-LEFT: 2em"&gt;昨年は、何も無かった。&lt;BR&gt;一昨年は、何も無かった。&lt;BR&gt;その前のとしも、何も無かった。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;　とでも言いたいくらいで、ただ、ばかばかしく、わが身に残っているものは、この地下足袋いっそく、というはかなさである。&lt;BR&gt;　地下足袋の事から、ついむだ話をはじめて脱線しちゃったけれど、私は、この、戦争の唯一の記念品とでもいうべき地下足袋をはいて、毎日のように畑に出て、胸の奥のひそかな不安や&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焦躁&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょうそう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をまぎらしているのだけれども、お母さまは、この頃、目立って日に日にお弱りになっていらっしゃるように見える。&lt;BR&gt;　蛇の卵。&lt;BR&gt;　火事。&lt;BR&gt;　あの頃から、どうもお母さまは、めっきり御病人くさくおなりになった。そうして私のほうでは、その反対に、だんだん粗野な下品な女になって行くような気もする。なんだかどうも私が、お母さまからどんどん生気を吸いとって太って行くような心地がしてならない。&lt;BR&gt;　火事の時だって、お母さまは、燃やすための薪だもの、と御冗談を言って、それっきり火事のことに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;就&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いては一言もおっしゃらず、かえって私をいたわるようにしていらしたが、しかし、内心お母さまの受けられたショックは、私の十倍も強かったのに違いない。あの火事があってから、お母さまは、夜中に時たま&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;呻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かれる事があるし、また、風の強い夜などは、お手洗いにおいでになる振りをして、深夜いくどもお床から脱けて家中をお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;見廻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みまわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;りになるのである。そうしてお顔色はいつも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;冴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えず、お歩きになるのさえやっとのように見える日もある。畑も手伝いたいと、前はおっしゃっていたが、いちど私が、およしなさいと申し上げたのに、井戸から大きい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;手桶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ておけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で畑に水を五、六ぱいお運びになり、翌日、いきの出来ないくらいに肩がこる、とおっしゃって一日、寝たきりで、そんな事があってからは&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;流石&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さすが&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に畑仕事はあきらめた御様子で、時たま畑へ出て来られても、私の働き振りを、ただ、じっと見ていらっしゃるだけである。&lt;BR&gt;「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」&lt;BR&gt;　きょうもお母さまは、私の畑仕事をじっと見ていらして、ふいとそんな事をおっしゃった。私は黙っておナスに水をやっていた。ああ、そういえば、もう初夏だ。&lt;BR&gt;「私は、ねむの花が好きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いのね」&lt;BR&gt;　と、お母さまは、また、しずかにおっしゃる。&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;夾竹桃&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きょうちくとう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がたくさんあるじゃないの」&lt;BR&gt;　私は、わざと、つっけんどんな口調で言った。&lt;BR&gt;「あれは、きらいなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきゃんすぎて」&lt;BR&gt;「私なら&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;薔薇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ばら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がいいな。だけど、あれは四季咲きだから、薔薇の好きなひとは、春に死んで、夏に死んで、秋に死んで、冬に死んで、四度も死に直さなければいけないの？」&lt;BR&gt;　二人、笑った。&lt;BR&gt;「すこし、休まない？」&lt;BR&gt;　とお母さまは、なおお笑いになりながら、&lt;BR&gt;「きょうは、ちょっとかず子さんと相談したい事があるの」&lt;BR&gt;「なあに？　死ぬお話なんかは、まっぴらよ」&lt;BR&gt;　私はお母さまの後について行って、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;藤棚&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふじだな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の下のベンチに並んで腰をおろした。藤の花はもう終って、やわらかな午後の日ざしが、その葉をとおして私たちの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;膝&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひざ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の上に落ち、私たちの膝をみどりいろに染めた。&lt;BR&gt;「前から聞いていただきたいと思っていた事ですけどね、お互いに気分のいい時に話そうと思って、きょうまで機会を待っていたの。どうせ、いい話じゃあ無いのよ。でも、きょうは何だか私もすらすら話せるような気がするもんだから、まあ、あなたも、我慢しておしまいまで聞いて下さいね。実はね、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;直治&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なおじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;は、生きているのです」&lt;BR&gt;　私は、からだを固くした。&lt;BR&gt;「五、六日前に、和田の叔父さまからおたよりがあってね、叔父さまの会社に以前つとめていらしたお方で、さいきん南方から帰還して、叔父さまのところに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;挨拶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あいさつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にいらして、その時、よもやまの話の末に、そのお方が偶然にも直治と同じ部隊で、そうして直治は無事で、もうすぐ帰還するだろうという事がわかったの。でも、ね、一ついやな事があるの。そのお方の話では、直治はかなりひどい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;阿片&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;アヘン&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;中毒になっているらしい、と……」&lt;BR&gt;「また！」&lt;BR&gt;　私はにがいものを食べたみたいに、口をゆがめた。直治は、高等学校の頃に、或る小説家の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;真似&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まね&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をして、麻薬中毒にかかり、そのために、薬屋からおそろしい金額の借りを作って、お母さまは、その借りを薬屋に全部支払うのに二年もかかったのである。&lt;BR&gt;「そう。また、はじめたらしいの。けれども、それのなおらないうちは、帰還もゆるされないだろうから、きっとなおして来るだろうと、そのお方も言っていらしたそうです。叔父さまのお手紙では、なおして帰って来たとしても、そんな心掛けの者では、すぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかぬ、いまのこの混乱の東京で働いては、まともの人間でさえ少し狂ったような気分になる、中毒のなおったばかりの半病人なら、すぐ発狂気味になって、何を仕出かすか、わかったものでない、それで、直治が帰って来たら、すぐこの伊豆の山荘に引取って、どこへも出さずに、当分ここで静養させたほうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つお言いつけになっているのだよ。叔父さまのお話では、もう私たちのお金が、なんにも無くなってしまったんだって。貯金の封鎖だの、財産税だので、もう叔父さまも、これまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうです。それでね、直治が帰って来て、お母さまと、直治と、かず子と三人あそんで暮していては、叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬから、いまのうちに、かず子のお嫁入りさきを捜すか、または、御奉公のお家を捜すか、どちらかになさい、という、まあ、お言いつけなの」&lt;BR&gt;「御奉公って、女中の事？」&lt;BR&gt;「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;駒場&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こまば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の」&lt;BR&gt;　と或る宮様のお名前を挙げて、&lt;BR&gt;「あの宮様なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがっても、かず子が、そんなに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;淋&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」&lt;BR&gt;「他に、つとめ口が無いものかしら」&lt;BR&gt;「他の職業は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」&lt;BR&gt;「なぜ無理なの？　ね、なぜ無理なの？」&lt;BR&gt;　お母さまは、淋しそうに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;微笑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほほえ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;んでいらっしゃるだけで、何ともお答えにならなかった。&lt;BR&gt;「いやだわ！　私、そんな話」&lt;BR&gt;　自分でも、あらぬ事を口走った、と思った。が、とまらなかった。&lt;BR&gt;「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」&lt;BR&gt;　と言ったら、涙が出て来て、思わずわっと泣き出した。顔を挙げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向って、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識みたいに、肉体とまるで無関係に、つぎつぎと続いて出た。&lt;BR&gt;「いつだか、おっしゃったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおっしゃったじゃないの。かず子がいないと、死んでしまうとおっしゃったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傍&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;そば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、そればっかり考えているのに、直治が帰って来るとお聞きになったら。急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ」&lt;BR&gt;　自分でも、ひどい事を口走ると思いながら、言葉が別の生き物のように、どうしてもとまらないのだ。&lt;BR&gt;「貧乏になって、お金が無くなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないの。このお家も、売ってしまったら、いいじゃないの。私には、何だって出来るわよ。この村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。役場で使って下さらなかったら、ヨイトマケにだってなれるわよ。貧乏なんて、なんでもない。お母さまさえ、私を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可愛&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かわい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がって下さったら、私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのに、お母さまは、私よりも直治のほうが可愛いのね。出て行くわ。私は出て行く。どうせ私は、直治とは昔から性格が合わないのだから、三人一緒に暮していたら、お互いに不幸よ。私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだから、もう思い残すことは無い。これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮して、そうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。私はもう、いやになった。これまでの生活が、いやになった。出て行きます。きょうこれから、すぐに出て行きます。私には、行くところがあるの」&lt;BR&gt;　私は立った。&lt;BR&gt;「かず子！」&lt;BR&gt;　お母さまはきびしく言い、そうしてかつて私に見せた事の無かったほど、威厳に満ちたお顔つきで、すっとお立ちになり、私と向い合って、そうして私よりも少しお背が高いくらいに見えた。&lt;BR&gt;　私は、ごめんなさい、とすぐに言いたいと思ったが、それが口にどうしても出ないで、かえって別の言葉が出てしまった。&lt;BR&gt;「だましたのよ。お母さまは、私をおだましになったのよ。直治が来るまで、私を利用していらっしゃったのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」&lt;BR&gt;　わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた。&lt;BR&gt;「お前は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;馬鹿&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ばか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だねえ」&lt;BR&gt;　と低くおっしゃったお母さまのお声は、怒りに震えていた。&lt;BR&gt;　私は顔を挙げ、&lt;BR&gt;「そうよ、馬鹿よ。馬鹿だから、だまされるのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよ。いないほうがいいのでしょう？　貧乏って、どんな事？　お金って、なんの事？　私には、わからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて来たのです」&lt;BR&gt;　とまた、ばかな、あらぬ事を口走った。&lt;BR&gt;　お母さまは、ふっとお顔をそむけた。泣いておられるのだ。私は、ごめんなさい、と言い、お母さまに抱きつきたいと思ったが、畑仕事で手がよごれているのが、かすかに気になり、へんに白々しくなって、&lt;BR&gt;「私さえ、いなかったらいいのでしょう？　出て行きます。私には、行くところがあるの」&lt;BR&gt;　と言い捨て、そのまま小走りに走って、お風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、それからお部屋へ行って、洋服に着換えているうちに、またわっと大きい声が出て泣き崩れ、思いのたけもっともっと泣いてみたくなって二階の洋間に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;駈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;か&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;け上り、ベッドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;痩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;や&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;せるほどひどく泣いて、そのうちに気が遠くなるみたいになって、だんだん、或るひとが恋いしくて、恋いしくて、お顔を見て、お声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;灸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きゅう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を据え、じっとこらえているような、特殊な気持になって行った。&lt;BR&gt;　夕方ちかく、お母さまは、しずかに二階の洋間にはいっていらして、パチと電燈に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;灯&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をいれて、それから、ベッドのほうに近寄って来られ、&lt;BR&gt;「かず子」&lt;BR&gt;　と、とてもお優しくお呼びになった。&lt;BR&gt;「はい」&lt;BR&gt;　私は起きて、ベッドの上に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;坐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;り、両手で髪を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;掻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;か&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;きあげ、お母さまのお顔を見て、ふふと笑った。&lt;BR&gt;　お母さまも、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;幽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かにお笑いになり、それから、お窓の下のソファに、深くからだを沈め、&lt;BR&gt;「私は、生れてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた。……お母さまはね、いま、叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。私の子供たちの事は、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を売りましょうよ。二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮しをしましょうよ。私はもう、あなたに、畑仕事などさせたくない。高いお野菜を買ったって、いいじゃないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です」&lt;BR&gt;　実は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけていたのだ。さっきあんなに、狂ったみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと、悲しみがごっちゃになって、何もかも、うらめしく、いやになったからなのだ。&lt;BR&gt;　私はベッドの上で、うつむいて、黙っていた。&lt;BR&gt;「かず子」&lt;BR&gt;「はい」&lt;BR&gt;「行くところがある、というのは、どこ？」&lt;BR&gt;　私は自分が、首すじまで赤くなったのを意識した。&lt;BR&gt;「細田さま？」&lt;BR&gt;　私は黙っていた。&lt;BR&gt;　お母さまは、深い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;溜息&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ためいき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をおつきになり、&lt;BR&gt;「昔の事を言ってもいい？」&lt;BR&gt;「どうぞ」&lt;BR&gt;　と私は小声で言った。&lt;BR&gt;「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ帰って来た時、お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でも、たった一ことだけ、（お母さまはあなたに裏切られました）って言ったわね。おぼえている？　そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど、……」&lt;BR&gt;　けれども、私はあの時、お母さまにそう言われて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。&lt;BR&gt;「お母さまがね、あの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。そう言われた時には、本当に、私は顔色が変る思いでした。だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、……」&lt;BR&gt;「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていただけなのよ」&lt;BR&gt;「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ？」&lt;BR&gt;「細田さまのところなんかじゃないわ」&lt;BR&gt;「そう？　そんなら、どこ？」&lt;BR&gt;「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;智慧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ちえ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう？　信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう？　ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが？」&lt;BR&gt;　お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、&lt;BR&gt;「ああ、そのかず子のひめごとが、よい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;実&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;み&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ」&lt;BR&gt;　私の胸にふうっと、お父上と&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;那須野&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なすの&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;萩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はぎ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、なでしこ、りんどう、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;女郎花&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おみなえし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;などの秋の草花が咲いていた。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;野葡萄&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;のぶどう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の実は、まだ青かった。&lt;BR&gt;　それから、お父上と&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;琵琶湖&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;びわこ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;でモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;藻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;も&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;棲&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;す&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと写っていて、そうしてうごいている、そのさまが前後と何の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;聯関&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;れんかん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;も無く、ふっと胸に浮んで、消えた。&lt;BR&gt;　私はベッドから滑り降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、&lt;BR&gt;「お母さま、さっきはごめんなさい」&lt;BR&gt;　と言う事が出来た。&lt;BR&gt;　思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いた頃で、それから、直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄がはじまった。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「斜陽」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1950（昭和25）年11月20日発行&lt;br /&gt;　　　1994（平成4）年6月5日93刷&lt;br /&gt;※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。（青空文庫）&lt;br /&gt;入力：SAME SIDE&lt;br /&gt;校正：細渕紀子&lt;br /&gt;2003年1月23日作成&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。 &lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-111052602059089649?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052602059089649'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052602059089649'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/03/2.html' title='斜陽(2)'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-111052636688877042</id><published>2005-03-10T06:08:00.000+09:00</published><updated>2005-03-11T16:55:32.826+09:00</updated><title type='text'>斜陽(3)</title><content type='html'>&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　　　　　三&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;浪&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;稀薄&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きはく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった。&lt;BR&gt;　このごろは雨が陰気に降りつづいて、何をするにも、もの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;憂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;う&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;くて、きょうはお座敷の縁側に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;籐椅子&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;とういす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を持ち出し、ことしの春にいちど編みかけてそのままにしていたセエタを、また編みつづけてみる気になったのである。淡い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;牡丹色&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぼたんいろ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のぼやけたような毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの糸を足して、セエタにするつもりなのだ。そうして、この淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年の前、私がまだ初等科にかよっていた頃、お母さまがこれで私の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頸巻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くびまき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を編んで下さった毛糸だった。その頸巻の端が&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頭巾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ずきん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;になっていて、私はそれをかぶって鏡を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;覗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;のぞ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いてみたら、小鬼のようであった。それに、色が、他の学友の頸巻の色と、まるで違っているので、私は、いやでいやで仕様が無かった。関西の多額納税の学友が、「いい頸巻してはるな」と、おとなびた口調でほめて下さったが、私は、いよいよ恥ずかしくなって、もうそれからは、いちどもこの頸巻をした事が無く、永い事うち&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;棄&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;す&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ててあったのだ。それを、ことしの春、死蔵品の復活とやらいう意味で、ときほぐして私のセエタにしようと思ってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような色合いが気に入らず、また打ちすて、きょうはあまりに所在ないまま、ふと取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。けれども、編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合って、なんとも言えないくらい柔かくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた。私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。調和って、なんて美しくて素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;呆然&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぼうぜん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;とした形だった。灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから不思議である。手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。そうして、モネーの霧の中の寺院の絵を思い出させる。私はこの毛糸の色に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;依&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;よ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って、はじめて「グウ」というものを知らされたような気がした。よいこのみ。そうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちゃんと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;識&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;し&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;っていらしてわざわざ選んで下さったのに、私は馬鹿でいやがって、けれども、それを子供の私に強制しようともなさらず、私のすきなようにさせて置かれたお母さま。私がこの色の美しさを、本当にわかるまで、二十年間も、この色に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;就&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いて一言も説明なさらず、黙って、そしらぬ振りをして待っていらしたお母さま。しみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまを、私と直治と二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではなかろうかと、ふうっとたまらない恐怖と心配の雲が胸に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;湧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いて、あれこれ思いをめぐらせばめぐらすほど、前途にとてもおそろしい、悪い事ばかり予想せられ、もう、とても、生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を膝に置き、大きい溜息をついて、顔を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;仰向&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あおむ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;け眼をつぶって、&lt;BR&gt;「お母さま」&lt;BR&gt;　と思わず言った。&lt;BR&gt;　お母さまは、お座敷の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;隅&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すみ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の机によりかかって、ご本を読んでいらしたのだが、&lt;BR&gt;「はい？」&lt;BR&gt;　と、不審そうに返事をなさった。&lt;BR&gt;　私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、&lt;BR&gt;「とうとう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;薔薇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ばら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が咲きました。お母さま、ご存じだった？　私は、いま気がついた。とうとう咲いたわ」&lt;BR&gt;　お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。それは、和田の叔父さまが、むかし、フランスだかイギリスだか、ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持帰りになった薔薇で、二、三箇月前に、叔父さまが、この山荘の庭に移し植えて下さった薔薇である。けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、てれ隠しに、たったいま気づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。花は、濃い紫色で、りんとした&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傲&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おご&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;りと強さがあった。&lt;BR&gt;「知っていました」&lt;BR&gt;　とお母さまはしずかにおっしゃって、&lt;BR&gt;「あなたには、そんな事が、とても重大らしいのね」&lt;BR&gt;「そうかも知れないわ。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可哀&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かわい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;そう？」&lt;BR&gt;「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手のマッチ箱にルナアルの絵を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;貼&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;は&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ったり、お人形のハンカチイフを作ってみたり、そういう事が好きなのね。それに、お庭の薔薇のことだって、あなたの言うことを聞いていると、生きている人の事を言っているみたい」&lt;BR&gt;「子供が無いからよ」&lt;BR&gt;　自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、はっとして、まの悪い思いで膝の編物をいじっていたら、&lt;BR&gt;　――二十九だからなあ。&lt;BR&gt;　そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、はっきり聞えたような気がして、私は恥ずかしさで、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頬&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が焼けるみたいに熱くなった。&lt;BR&gt;　お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島から&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蒼黒&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あおぐろ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;い顔になって&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;還&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かえ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って来たのだ。&lt;BR&gt;　何の前触れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から庭へはいって来て、&lt;BR&gt;「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;来々軒&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;らいらいけん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;。シュウマイあります、と貼りふだしろよ」&lt;BR&gt;　それが私とはじめて顔を合せた時の、直治の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;挨拶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あいさつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;であった。&lt;BR&gt;　その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寝ていらした。舌の先が、外見はなんの変りも無いのに、うごかすと痛くてならぬとおっしゃって、お食事も、うすいおかゆだけで、お医者さまに見ていただいたら？　と言っても、首を振って、&lt;BR&gt;「笑われます」&lt;BR&gt;　と苦笑いしながら、おっしゃる。ルゴールを塗ってあげたけれども、少しもききめが無いようで、私は妙にいらいらしていた。&lt;BR&gt;　そこへ、直治が帰還して来たのだ。&lt;BR&gt;　直治はお母さまの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;枕元&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まくらもと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に坐って、ただいま、と言ってお辞儀をし、すぐに立ち上って、小さい家の中をあちこちと見て廻り、私がその後をついて歩いて、&lt;BR&gt;「どう？　お母さまは、変った？」&lt;BR&gt;「変った、変った。やつれてしまった。早く死にゃいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちゃおれねえ」&lt;BR&gt;「私は？」&lt;BR&gt;「げびて来た。男が二三人もあるような顔をしていやがる。酒は？　今夜は飲むぜ」&lt;BR&gt;　私はこの部落でたった一軒の宿屋へ行って、おかみさんのお咲さんに、弟が帰還したから、お酒を少しわけて下さい、とたのんでみたけれども、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしています、というので、帰って直治にそう伝えたら、直治は、見た事も無い他人のような表情の顔になって、ちえっ、交渉が下手だからそうなんだ、と言い、私から宿屋の在る場所を聞いて、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;庭下駄&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;にわげた&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても家へ帰って来なかった。私は直治の好きだった焼き&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;林檎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;りんご&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;と、それから、卵のお料理などこしらえて、食堂の電球も明るいのと取りかえ、ずいぶん待って、そのうちに、お咲さんが、お勝手口からひょいと顔を出し、&lt;BR&gt;「もし、もし。大丈夫でしょうか。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焼酎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょうちゅう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を召し上っているのですけど」&lt;BR&gt;　と、れいの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;鯉&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の眼のようなまんまるい眼を、さらに強く見はって、一大事のように、低い声で言うのである。&lt;BR&gt;「焼酎って。あの、メチル？」&lt;BR&gt;「いいえ、メチルじゃありませんけど」&lt;BR&gt;「飲んでも、病気にならないのでしょう？」&lt;BR&gt;「ええ、でも、……」&lt;BR&gt;「飲ませてやって下さい」&lt;BR&gt;　お咲さんは、つばきを飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。&lt;BR&gt;　私はお母さまのところに行って、&lt;BR&gt;「お咲さんのところで、飲んでいるんですって」&lt;BR&gt;　と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑いになって、&lt;BR&gt;「そう。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;阿片&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;アヘン&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のほうは、よしたのかしら。あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋におやすみ。直治のお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蒲団&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふとん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を、まんなかにして」&lt;BR&gt;　私は泣きたいような気持になった。&lt;BR&gt;　夜ふけて、直治は、荒い足音をさせて帰って来た。私たちは、お座敷に三人、一つの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蚊帳&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かや&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にはいって寝た。&lt;BR&gt;「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら？」&lt;BR&gt;　と私が寝ながら言うと、&lt;BR&gt;「何も無い。何も無い。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田が、すばらしく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;綺麗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きれい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に見えた。それだけだ。電気を消せよ。眠られやしねえ」&lt;BR&gt;　私は電燈を消した。夏の月光が&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;洪水&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こうずい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のように蚊帳の中に満ちあふれた。&lt;BR&gt;　あくる朝、直治は寝床に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;腹這&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はらば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いになって、煙草を吸いながら、遠く海のほうを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;眺&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なが&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;めて、&lt;BR&gt;「舌が痛いんですって？」&lt;BR&gt;　と、はじめてお母さまのお加減の悪いのに気がついたみたいなふうの口のきき方をした。&lt;BR&gt;　お母さまは、ただ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;幽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かにお笑いになった。&lt;BR&gt;「そいつあ、きっと、心理的なものなんだ。夜、口をあいておやすみになるんでしょう。だらしがない。マスクをなさい。ガーゼにリバノール液でもひたして、それをマスクの中にいれて置くといい」&lt;BR&gt;　私はそれを聞いて噴き出し、&lt;BR&gt;「それは、何療法っていうの？」&lt;BR&gt;「美学療法っていうんだ」&lt;BR&gt;「でも、お母さまは、マスクなんか、きっとおきらいよ」&lt;BR&gt;　お母さまは、マスクに限らず、眼帯でも、眼鏡でも、お顔にそんなものを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;附&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ける事は大きらいだった&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;筈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;である。&lt;BR&gt;「ねえ、お母さま。マスクをなさる？」&lt;BR&gt;　と私がおたずねしたら、&lt;BR&gt;「致します」&lt;BR&gt;　とまじめに低くお答えになったので、私は、はっとした。直治の言う事なら、なんでも信じて従おうと思っていらっしゃるらしい。&lt;BR&gt;　私が朝食の後に、さっき直治が言ったとおりに、ガーゼにリバノール液をひたしなどして、マスクを作り、お母さまのところに持って行ったら、お母さまは、黙って受け取り、おやすみになったままで、マスクの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;紐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ひも&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を両方のお耳に素直におかけになり、そのさまが、本当にもう幼い童女のようで、私には悲しく思われた。&lt;BR&gt;　お昼すぎに、直治は、東京のお友達や、文学のほうの師匠さんなどに逢わなければならぬと言って背広に着換え、お母さまから、二千円もらって東京へ出かけて行ってしまった。それっきり、もう十日ちかくなるのだけれども、直治は、帰って来ないのだ。そうして、お母さまは、毎日マスクをなさって、直治を待っていらっしゃる。&lt;BR&gt;「リバノールって、いい薬なのね。このマスクをかけていると、舌の痛みが消えてしまうのですよ」&lt;BR&gt;　と、笑いながらおっしゃったけれども、私には、お母さまが&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;嘘&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うそ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;をついていらっしゃるように思われてならないのだ。もう大丈夫、とおっしゃって、いまは起きていらっしゃるけれども、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;食慾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょくよく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;はやっぱりあまり無い御様子だし、口数もめっきり少く、とても私は気がかりで、直治はまあ、東京で何をしているのだろう、あの小説家の上原さんなんかと一緒に東京中を遊びまわって、東京の狂気の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;渦&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に巻き込まれているのにちがいない、と思えば思うほど、苦しくつらくなり、お母さまに、だしぬけに薔薇の事など報告して、そうして、子供が無いからよ、なんて自分にも思いがけなかったへんな事を口走って、いよいよ、いけなくなるばかりで、&lt;BR&gt;「あ」&lt;BR&gt;　と言って立ち上り、さて、どこへも行くところが無く、身一つをもてあまして、ふらふら階段をのぼって行って、二階の洋間にはいってみた。&lt;BR&gt;　ここは、こんど直治の部屋になる筈で、四、五日前に私が、お母さまと相談して、下の農家の中井さんにお手伝いをたのみ、直治の洋服&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;箪笥&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;だんす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;や机や本箱、また、蔵書やノートブックなど一ぱいつまった木の箱五つ六つ、とにかく昔、西片町のお家の直治のお部屋にあったもの全部を、ここに持ち運び、いまに直治が東京から帰って来たら、直治の好きな位置に、箪笥本箱などそれぞれ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;据&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;す&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;える事にして、それまではただ雑然とここに置き放しにしていたほうがよさそうに思われたので、もう、足の踏み場も無いくらいに、部屋一ぱい散らかしたままで、私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一冊取りあげて見たら、そのノートブックの表紙には、&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　　　夕顔日誌&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。直治が、あの、麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記のようであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　焼け死ぬる思い。苦しくとも、苦しと一言、半句、叫び得ぬ、古来、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;未曾有&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みぞう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、人の世はじまって以来、前例も無き、底知れぬ地獄の気配を、ごまかしなさんな。&lt;BR&gt;　思想？　ウソだ。主義？　ウソだ。理想？　ウソだ。秩序？　ウソだ。誠実？　真理？　純粋？　みなウソだ。牛島の藤は、樹齢千年、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;熊野&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ゆや&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の藤は、数百年と&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;称&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;とな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えられ、その花穂の如きも、前者で最長九尺、後者で五尺余と聞いて、ただその花穂にのみ、心がおどる。&lt;BR&gt;　アレモ人ノ子。生キテイル。&lt;BR&gt;　論理は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょせん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、論理への愛である。生きている人間への愛では無い。&lt;BR&gt;　金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。&lt;BR&gt;　歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証。&lt;BR&gt;　学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　ゲエテにだって誓って言える。僕は、どんなにでも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;巧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;く書けます。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;一篇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いっぺん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の構成あやまたず、適度の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;滑稽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こっけい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、読者の眼のうらを焼く悲哀、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;若&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;も&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しくは、粛然、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所謂襟&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;いわゆるえり&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を正さしめ、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;完璧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かんぺき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいというんだ。小説を読んで襟を正すなんて、狂人の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;所作&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;である。そんなら、いっそ、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;羽織袴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はおりはかま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;でせにゃなるまい。よい作品ほど、取り澄ましていないように見えるのだがなあ。僕は友人の心からたのしそうな笑顔を見たいばかりに、一篇の小説、わざとしくじって、下手くそに書いて、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;尻餅&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しりもち&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ついて頭かきかき逃げて行く。ああ、その時の、友人のうれしそうな顔ったら！&lt;BR&gt;　文いたらず、人いたらぬ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;風情&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふぜい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、おもちゃのラッパを吹いてお聞かせ申し、ここに日本一の馬鹿がいます、あなたはまだいいほうですよ、健在なれ！　と願う愛情は、これはいったい何でしょう。&lt;BR&gt;　友人、したり顔にて、あれがあいつの悪い癖、惜しいものだ、と御述懐。愛されている事を、ご存じ無い。&lt;BR&gt;　不良でない人間があるだろうか。&lt;BR&gt;　味気ない思い。&lt;BR&gt;　金が欲しい。&lt;BR&gt;　さもなくば、&lt;BR&gt;　眠りながらの自然死！&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　薬屋に千円ちかき借金あり。きょう、質屋の番頭をこっそり家へ連れて来て、僕の部屋へとおして、何かこの部屋に目ぼしい質草ありや、あるなら持って行け、火急に金が要る、と申せしに、番頭ろくに部屋の中を見もせず、およしなさい、あなたのお道具でもないのに、とぬかした。よろしい、それならば、僕がいままで、僕のお小遣い銭で買った品物だけ持って行け、と威勢よく言って、かき集めたガラクタ、質草の資格あるしろもの一つも無し。&lt;BR&gt;　まず、片手の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;石膏像&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;せっこうぞう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;。これは、ヴィナスの右手。ダリヤの花にも似た片手、まっしろい片手、それがただ台上に載っているのだ。けれども、これをよく見ると、これはヴィナスが、その全裸を、男に見られて、あなやの驚き、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;含羞旋風&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;がんしゅうせんぷう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、裸身むざん、薄くれない、残りくまなき、かッかッのほてり、からだをよじってこの手つき、そのようなヴィナスの息もとまるほどの裸身のはじらいが、指先に指紋も無く、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;掌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;てのひら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に一本の手筋もない純白のこのきゃしゃな右手に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;依&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;よ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って、こちらの胸も苦しくなるくらいに哀れに表情せられているのが、わかる筈だ。けれども、これは、所謂、非実用のガラクタ。番頭、五十銭と値踏みせり。&lt;BR&gt;　その他、パリ近郊の大地図、直径一尺にちかきセルロイドの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;独楽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、糸よりも細く字の書ける特製のペン先、いずれも掘出物のつもりで買った品物ばかりなのだが、番頭笑って、もうおいとま致します、と言う。待て、と制止して、結局また、本を山ほど番頭に背負わせて、金五円也を受け取る。僕の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;本棚&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほんだな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の本は、ほとんど&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;廉価&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;れんか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の文庫本のみにして、しかも古本屋から仕入れしものなるに依って、質の値もおのずから、このように安いのである。&lt;BR&gt;　千円の借銭を解決せんとして、五円也。世の中に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;於&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;お&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ける、僕の実力、おおよそかくの如し。笑いごとではない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　デカダン？　しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね！　と言ってくれる人のほうがありがたい。さっぱりする。けれども人は、めったに、死ね！　とは言わないものだ。ケチくさく、用心深い偽善者どもよ。&lt;BR&gt;　正義？　所謂階級闘争の本質は、そんなところにありはせぬ。人道？　冗談じゃない。僕は知っているよ。自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。死ね！　という宣告でなかったら、何だ。ごまかしちゃいけねえ。&lt;BR&gt;　しかし、僕たちの階級にも、ろくな奴がいない。白痴、幽霊、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;守銭奴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しゅせんど&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;、狂犬、ほら吹き、ゴザイマスル、雲の上から小便。&lt;BR&gt;　死ね！　という言葉を与えるのさえ、もったいない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　戦争。日本の戦争は、ヤケクソだ。&lt;BR&gt;　ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ！&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　人から尊敬されようと&lt;STRONG class=SESAME_DOT&gt;思わぬ&lt;/STRONG&gt;人たちと遊びたい。&lt;BR&gt;　けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。&lt;BR&gt;　僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;噂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うわさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;した。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;呻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。&lt;BR&gt;　どうも、くいちがう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。&lt;BR&gt;　このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　春の朝、二三輪の花の咲きほころびた梅の枝に朝日が当って、その枝にハイデルベルヒの若い学生が、ほっそりと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;縊&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;れて死んでいたという。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「ママ！　僕を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;叱&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って下さい！」&lt;BR&gt;「どういう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;工合&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ぐあ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いに？」&lt;BR&gt;「弱虫！　って」&lt;BR&gt;「そう？　弱虫。……もう、いいでしょう？」&lt;BR&gt;　ママには無類のよさがある。ママを思うと、泣きたくなる。ママへおわびのためにも、死ぬんだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　オユルシ下サイ。イマ、イチドダケ、オユルシ下サイ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　年々や&lt;BR&gt;　めしいのままに&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;鶴&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のひな&lt;BR&gt;　育ちゆくらし&lt;BR&gt;　あわれ、太るも　　　　　　（&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;元旦&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;がんたん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;試作）&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　モルヒネ　アトロモール　ナルコポン　パントポン　パビナアル　パンオピン　アトロピン&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　プライドとは何だ、プライドとは。&lt;BR&gt;　人間は、いや、男は、（おれはすぐれている）（おれにはいいところがあるんだ）などと&lt;STRONG class=SESAME_DOT&gt;思わずに&lt;/STRONG&gt;、生きて行く事が出来ぬものか。&lt;BR&gt;　人をきらい、人にきらわれる。&lt;BR&gt;　ちえくらべ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　厳粛＝&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;阿呆感&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あほうかん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　或る借銭申込みの手紙。&lt;BR&gt;「御返事を。&lt;BR&gt;　御返事を下さい。&lt;BR&gt;　そうして、それが&lt;STRONG class=SESAME_DOT&gt;必ず快報&lt;/STRONG&gt;であるように。&lt;BR&gt;　僕はさまざまの屈辱を思い設けて、ひとりで呻いています。&lt;BR&gt;　芝居をしているのではありません。&lt;STRONG class=SESAME_DOT&gt;絶対に&lt;/STRONG&gt;そうではありません。&lt;BR&gt;　お願いいたします。&lt;BR&gt;　僕は恥ずかしさのために死にそうです。&lt;BR&gt;　誇張ではないのです。&lt;BR&gt;　毎日毎日、御返事を待って、夜も昼もがたがたふるえているのです。&lt;BR&gt;　僕に、砂を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;噛&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;か&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ませないで。&lt;BR&gt;　壁から忍び笑いの声が聞えて来て、深夜、床の中で&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;輾転&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;てんてん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しているのです。&lt;BR&gt;　僕を恥ずかしい目に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;逢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;わせないで。&lt;BR&gt;　姉さん！」&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　そこまで読んで私は、その夕顔日誌を閉じ、木の箱にかえして、それから窓のほうに歩いて行き、窓を一ぱいにひらいて、白い雨に煙っているお庭を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;見下&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みおろ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しながら、あの頃の事を考えた。&lt;BR&gt;　もう、あれから、六年になる。直治の、この麻薬中毒が、私の離婚の原因になった、いいえ、そう言ってはいけない、私の離婚は、直治の麻薬中毒がなくっても、べつな何かのきっかけで、いつかは行われているように、そのように、私の生れた時から、さだまっていた事みたいな気もする。直治は、薬屋への支払いに困って、しばしば私にお金をねだった。私は山木へ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;嫁&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;とつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いだばかりで、お金などそんなに自由になるわけは無し、また、嫁ぎ先のお金を、里の弟へこっそり融通してやるなど、たいへん工合いの悪い事のようにも思われたので、里から私に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;附&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;き添って来たばあやのお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;関&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;せき&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;さんと相談して、私の腕輪や、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頸飾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くびかざ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;りや、ドレスを売った。弟は私に、お金を下さい、という手紙を寄こして、そうして、いまは苦しくて恥ずかしくて、姉上と顔を合せる事も、また電話で話する事さえ、とても出来ませんから、お金は、お関に言いつけて、京橋の×町×丁目のカヤノアパートに住んでいる、姉上も名前だけはご存じの筈の、小説家上原二郎さんのところにとどけさせるよう、上原さんは、悪徳のひとのように世の中から評判されているが、決してそんな人ではないから、安心してお金を上原さんのところへとどけてやって下さい、そうすると、上原さんがすぐに僕に電話で知らせる事になっているのですから、必ずそのようにお願いします、僕はこんどの中毒を、ママにだけは気附かれたくないのです、ママの知らぬうちに、なんとかしてこの中毒をなおしてしまうつもりなのです、僕は、こんど姉上からお金をもらったら、それでもって薬屋への借りを全部支払って、それから塩原の別荘へでも行って、健康なからだになって帰って来るつもりなのです、本当です、薬屋の借りを全部すましたら、もう僕は、その日から麻薬を用いる事はぴったりよすつもりです、神さまに誓います、信じて下さい、ママには内緒に、お関をつかってカヤノアパートの上原さんに、たのみます、というような事が、その手紙に書かれていて、私はその&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;指図&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さしず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;どおりに、お関さんにお金を持たせて、こっそり上原さんのアパートにとどけさせたものだが、弟の手紙の誓いは、いつも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;嘘&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うそ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で、塩原の別荘にも行かず、薬品中毒はいよいよひどくなるばかりの様子で、お金をねだる手紙の文章も、悲鳴に近い苦しげな調子で、こんどこそ薬をやめると、顔をそむけたいくらいの哀切な誓いをするので、また嘘かも知れぬと思いながらも、ついまた、ブローチなどお関さんに売らせて、そのお金を上原さんのアパートにとどけさせるのだった。&lt;BR&gt;「上原さんって、どんな方？」&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;小柄&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こがら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で顔色の悪い、ぶあいそな人でございます」&lt;BR&gt;　と、お関さんは答える。&lt;BR&gt;「でも、アパートにいらっしゃる事は、めったにございませぬです。たいてい、奥さんと、六つ七つの女のお子さんと、お二人がいらっしゃるだけでございます。この奥さんは、そんなにお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;綺麗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きれい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;でもございませぬけれども、お優しくて、よく出来たお方のようでございます。あの奥さんになら、安心してお金をあずける事が出来ます」&lt;BR&gt;　その頃の私は、いまの私に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;較&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;べて、いいえ、較べものにも何もならぬくらい、まるで違った人みたいに、ぼんやりの、のんき者ではあったが、それでも&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;流石&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さすが&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、つぎつぎと続いてしかも次第に多額のお金をねだられて、たまらなく心配になり、一日、お能からの帰り、自動車を銀座でかえして、それからひとりで歩いて京橋のカヤノアパートを訪ねた。&lt;BR&gt;　上原さんは、お部屋でひとり、新聞を読んでいらした。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;縞&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;袷&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あわせ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;紺絣&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こんがすり&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のお羽織を召していらして、お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もない奇獣のような、へんな初印象を私は受取った。&lt;BR&gt;「女房はいま、子供と、一緒に、配給物を取りに」&lt;BR&gt;　すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。私が、直治の姉だと言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。私は、なぜだか、ひやりとした。&lt;BR&gt;「出ましょうか」&lt;BR&gt;　そう言って、もう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;二重廻&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;にじゅうまわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;しをひっかけ、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;下駄箱&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;げたばこ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;から新しい下駄を取り出しておはきになり、さっさとアパートの廊下を先に立って歩かれた。&lt;BR&gt;　外は、初冬の夕暮。風が、つめたかった。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;隅田川&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すみだがわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;から吹いて来る川風のような感じであった。上原さんは、その川風にさからうように、すこし右肩をあげて築地のほうに黙って歩いて行かれる。私は小走りに走りながら、その後を追った。&lt;BR&gt;　東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。四、五組の客が、二十畳くらいの細長いお部屋で、それぞれ卓をはさんで、ひっそりお酒を飲んでいた。&lt;BR&gt;　上原さんは、コップでお酒をお飲みになった。そうして、私にも別なコップを取り寄せて下さって、お酒をすすめた。私は、そのコップで二杯飲んだけれども、なんともなかった。&lt;BR&gt;　上原さんは、お酒を飲み、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;煙草&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たばこ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を吸い、そうしていつまでも黙っていた。私も、黙っていた。私はこんなところへ来たのは、生まれてはじめての事であったけれども、とても落ちつき、気分がよかった。&lt;BR&gt;「お酒でも飲むといいんだけど」&lt;BR&gt;「え？」&lt;BR&gt;「いいえ、弟さん。アルコールのほうに転換するといいんですよ。僕も昔、麻薬中毒になった事があってね、あれは人が薄気味わるがってね、アルコールだって同じ様なものなんだが、アルコールのほうは、人は案外ゆるすんだ。弟さんを、酒飲みにしちゃいましょう。いいでしょう？」&lt;BR&gt;「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようとした時、うちの運転手の知合いの者が、自動車の助手席で、鬼のような&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;真赤&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;まっか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;な顔をして、ぐうぐう大いびきで眠っていましたの。私がおどろいて叫んだら、運転手が、これはお酒飲みで、仕様が無いんです、と言って、自動車からおろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。骨が無いみたいにぐったりして、何だかそれでも、ぶつぶつ言っていて、私あの時、はじめてお酒飲みってものを見たのですけど、面白かったわ」&lt;BR&gt;「僕だって、酒飲みです」&lt;BR&gt;「あら、だって、違うんでしょう？」&lt;BR&gt;「あなただって、酒飲みです」&lt;BR&gt;「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飲みを見た事があるんですもの。まるで、違いますわ」&lt;BR&gt;　上原さんは、はじめて楽しそうにお笑いになって、&lt;BR&gt;「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかも知れませんが、とにかく、酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。おそくなると、困るんでしょう？」&lt;BR&gt;「いいえ、かまわないんですの」&lt;BR&gt;「いや、実は、こっちが窮屈でいけねえんだ。ねえさん！　会計！」&lt;BR&gt;「うんと高いのでしょうか。少しなら、私、持っているんですけど」&lt;BR&gt;「そう。そんなら、会計は、あなただ」&lt;BR&gt;「足りないかも知れませんわ」&lt;BR&gt;　私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを上原さんに教えた。&lt;BR&gt;「それだけあれば、もう二、三軒飲める。馬鹿にしてやがる」&lt;BR&gt;　上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。&lt;BR&gt;「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか？」&lt;BR&gt;　と、おたずねしたら、まじめに首を振って、&lt;BR&gt;「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい」&lt;BR&gt;　私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;中頃&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なかごろ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;唇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くちびる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を固く閉じたまま、それを受けた。&lt;BR&gt;　べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を上って行って、私は不思議な透明な気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、川風が&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頬&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;にとても気持よかった。&lt;BR&gt;　上原さんに、タキシーを拾っていただいて、私たちは黙ってわかれた。&lt;BR&gt;　車にゆられながら、私は世間が急に海のようにひろくなったような気持がした。&lt;BR&gt;「私には、恋人があるの」&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;或&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;る日、私は、夫からおこごとをいただいて淋しくなって、ふっとそう言った。&lt;BR&gt;「知っています。細田でしょう？　どうしても、思い切る事が出来ないのですか？」&lt;BR&gt;　私は黙っていた。&lt;BR&gt;　その問題が、何か気まずい事の起る&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;度毎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;たびごと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、私たち夫婦の間に持ち出されるようになった。もうこれは、だめなんだ、と私は思った。ドレスの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;生地&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を間違って裁断した時みたいに、もうその生地は縫い合せる事も出来ず、全部捨てて、また別の新しい生地の裁断にとりかからなければならぬ。&lt;BR&gt;「まさか、その、おなかの子は」&lt;BR&gt;　と或る夜、夫に言われた時には、私はあまりおそろしくて、がたがた震えた。いま思うと、私も夫も、若かったのだ。私は、恋も知らなかった。愛、さえ、わからなかった。私は、細田さまのおかきになる絵に夢中になって、あんなお方の奥さまになったら、どんなに、まあ、美しい日常生活を営むことが出来るでしょう、あんなよい趣味のお方と結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私は誰にでも言いふらしていたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず、平気で細田さまを好きだという事を公言し、取消そうともしなかったので、へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫の疑惑の的になったりして、誰ひとり離婚などあらわに言い出したお方もいなかったのに、いつのまにやら周囲が白々しくなっていって、私は附き添いのお関さんと一緒に里のお母さまのところに帰って、それから、赤ちゃんが死んで生れて、私は病気になって寝込んで、もう、山木との間は、それっきりになってしまったのだ。&lt;BR&gt;　直治は、私が離婚になったという事に、何か責任みたいなものを感じたのか、僕は死ぬよ、と言って、わあわあ声を挙げて、顔が腐ってしまうくらいに泣いた。私は弟に、薬屋の借りがいくらになっているのかたずねてみたら、それはおそろしいほどの金額であった。しかも、それは弟が実際の金額を言えなくて、嘘をついていたのがあとでわかった。あとで判明した実際の総額は、その時に弟が私に教えた金額の約三倍ちかくあったのである。&lt;BR&gt;「私、上原さんに&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;逢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;ったわ。いいお方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう？　お酒って、とても安いものじゃないの。お酒のお金くらいだったら、私いつでもあなたにあげるわ。薬屋の払いの事も、心配しないで。どうにか、なるわよ」&lt;BR&gt;　私が上原さんと逢って、そうして上原さんをいいお方だと言ったのが、弟を何だかひどく喜ばせたようで、弟は、その夜、私からお金をもらって早速、上原さんのところに遊びに行った。&lt;BR&gt;　中毒は、それこそ、精神の病気なのかも知れない。私が上原さんをほめて、そうして弟から上原さんの著書を借りて読んで、偉いお方ねえ、などと言うと、弟は、姉さんなんかにはわかるもんか、と言って、それでも、とてもうれしそうに、じゃあこれを読んでごらん、とまた別の上原さんの著書を私に読ませ、そのうちに私も上原さんの小説を本気に読むようになって、二人であれこれ上原さんの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;噂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うわさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;などして、弟は毎晩のように上原さんのところに大威張りで遊びに行き、だんだん上原さんの御計画どおりにアルコールのほうへ転換していったようであった。薬屋の支払いに就いて、私がお母さまにこっそり相談したら、お母さまは、片手でお顔を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;覆&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いなさって、しばらくじっとしていらっしゃったが、やがてお顔を挙げて淋しそうにお笑いになり、考えたって仕様が無いわね、何年かかるかわからないけど、毎月すこしずつでもかえして行きましょうよ、とおっしゃった。&lt;BR&gt;　あれから、もう、六年になる。&lt;BR&gt;　夕顔。ああ、弟も苦しいのだろう。しかも、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;途&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;みち&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。&lt;BR&gt;　いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。&lt;BR&gt;　不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。不良とは、優しさの事ではないかしら。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;底本：「斜陽」新潮文庫、新潮社&lt;br /&gt;　　　1950（昭和25）年11月20日発行&lt;br /&gt;　　　1994（平成4）年6月5日93刷&lt;br /&gt;※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。（青空文庫）&lt;br /&gt;入力：SAME SIDE&lt;br /&gt;校正：細渕紀子&lt;br /&gt;2003年1月23日作成&lt;br /&gt;青空文庫作成ファイル：&lt;br /&gt;このファイルは、インターネットの図書館、&lt;a href="http://www.aozora.gr.jp/"&gt;青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）&lt;/a&gt;で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。&lt;br /&gt;--------------------------------------------------&lt;br /&gt;●表記について&lt;br /&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。&lt;br /&gt;&lt;li&gt;傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。 &lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/11370977-111052636688877042?l=dazaiosamu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052636688877042'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/11370977/posts/default/111052636688877042'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://dazaiosamu.blogspot.com/2005/03/3.html' title='斜陽(3)'/><author><name>NIHON MURA</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-11370977.post-111052654008488029</id><published>2005-03-10T05:08:00.000+09:00</published><updated>2005-03-11T16:55:05.443+09:00</updated><title type='text'>斜陽(4)</title><content type='html'>&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　　　　　四&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　お手紙、書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。けれども、けさ、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;鳩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のごとく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;素直&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すなお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蛇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;へび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のごとく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;慧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かれ、というイエスの言葉をふと思い出し、奇妙に元気が出て、お手紙を差し上げる事にしました。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;直治&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;なおじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の姉でございます。お忘れかしら。お忘れだったら、思い出して下さい。&lt;BR&gt;　直治が、こないだまたお邪魔にあがって、ずいぶんごやっかいを、おかけしたようで、相すみません。（でも、本当は、直治の事は、それは直治の勝手で、私が差し出ておわびをするなど、ナンセンスみたいな気もするのです。）きょうは、直治の事でなく、私の事で、お願いがあるのです。京橋のアパートで&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;罹災&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;りさい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;なさって、それから今の御住所にお移りになった事を直治から聞きまして、よっぽど東京の郊外のそのお宅にお伺いしようかと思ったのですが、お母さまがこないだからまた少しお加減が悪く、お母さまをほっといて上京する事は、どうしても出来ませぬので、それで、お手紙で申し上げる事に致しました。&lt;BR&gt;　あなたに、御相談してみたい事があるのです。&lt;BR&gt;　私のこの相談は、これまでの「女大学」の立場から見ると、非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪でさえあるかも知れませんが、けれども私は、いいえ、私たちは、いまのままでは、とても生きて行けそうもありませんので、弟の直治がこの世で一ばん尊敬しているらしいあなたに、私のいつわらぬ気持を聞いていただき、お指図をお願いするつもりなのです。&lt;BR&gt;　私には、いまの生活が、たまらないのです。すき、きらいどころではなく、とても、このままでは私たち親子三人、生きて行けそうもないのです。&lt;BR&gt;　昨日も、くるしくて、からだも熱っぽく、息ぐるしくて、自分をもてあましていましたら、お昼すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負って持って来ました。そうして私のほうから、約束どおりの衣類を差し上げました。娘さんは、食堂で私と向い合って腰かけてお茶を飲みながら、じつに、リアルな口調で、&lt;BR&gt;「あなた、ものを売って、これから先、どのくらい生活して行けるの？」&lt;BR&gt;　と言いました。&lt;BR&gt;「&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;半歳&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はんとし&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;か、一年くらい」&lt;BR&gt;　と私は答えました。そうして、右手で半分ばかり顔をかくして、&lt;BR&gt;「眠いの。眠くて、仕方がないの」&lt;BR&gt;　と言いました。&lt;BR&gt;「疲れているのよ。眠くなる神経衰弱でしょう」&lt;BR&gt;「そうでしょうね」&lt;BR&gt;　涙が出そうで、ふと私の胸の中に、リアリズムという言葉と、ロマンチシズムという言葉が浮んで来ました。私に、リアリズムは、ありません。こんな具合いで、生きて行けるのかしら、と思ったら、全身に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;寒気&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さむけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を感じました。お母さまは、半分御病人のようで、寝たり起きたりですし、弟は、ご存じのように心の大病人で、こちらにいる時は、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焼酎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょうちゅう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を飲みに、この近所の宿屋と料理屋とをかねた家へ御精勤で、三日にいちどは、私たちの衣類を売ったお金を持って東京方面へ御出張です。でも、くるしいのは、こんな事ではありません。私はただ、私自身の生命が、こんな日常生活の中で、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;芭蕉&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ばしょう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の葉が散らないで腐って行くように、立ちつくしたままおのずから腐って行くのをありありと予感せられるのが、おそろしいのです。とても、たまらないのです。だから私は、「女大学」にそむいても、いまの生活からのがれ出たいのです。&lt;BR&gt;　それで、私、あなたに、相談いたします。&lt;BR&gt;　私は、いま、お母さまや弟に、はっきり宣言したいのです。私が前から、或るお方に恋をしていて、私は将来、そのお方の愛人として暮らすつもりだという事を、はっきり言ってしまいたいのです。そのお方は、あなたもたしかご存じの筈です。そのお方のお名前のイニシャルは、Ｍ・Ｃでございます。私は前から、何か苦しい事が起ると、そのＭ・Ｃのところに飛んで行きたくて、こがれ死にをするような思いをして来たのです。&lt;BR&gt;　Ｍ・Ｃには、あなたと同じ様に、奥さまもお子さまもございます。また、私より、もっと綺麗で若い、女のお友達もあるようです。けれども私は、Ｍ・Ｃのところへ行くより&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;他&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、私の生きる途が無い気持なのです。Ｍ・Ｃの奥さまとは、私はまだ逢った事がありませんけれども、とても優しくてよいお方のようでございます。私は、その奥さまの事を考えると、自分をおそろしい女だと思います。けれども、私のいまの生活は、それ以上におそろしいもののような気がして、Ｍ・Ｃにたよる事を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;止&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;よ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;せないのです。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;鳩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のごとく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;素直&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すなお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蛇&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;へび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のごとく&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;慧&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;さと&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;く、私は、私の恋をしとげたいと思います。でも、きっと、お母さまも、弟も、また世間の人たちも、誰ひとり私に賛成して下さらないでしょう。あなたは、いかがです。私は結局、ひとりで考えて、ひとりで行動するより他は無いのだ、と思うと、涙が出て来ます。生れて初めての、&lt;STRONG class=SESAME_DOT&gt;こと&lt;/STRONG&gt;なのですから。この、むずかしいことを、周囲のみんなから祝福されてしとげる法はないものかしら、とひどくややこしい代数の因数分解か何かの答案を考えるように、思いをこらして、どこかに一箇所、ぱらぱらと綺麗に解きほぐれる糸口があるような気持がして来て、急に陽気になったりなんかしているのです。&lt;BR&gt;　けれども、かんじんのＭ・Ｃのほうで、私をどう思っていらっしゃるのか。それを考えると、しょげてしまいます。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;い&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;わば、私は、押しかけ、………なんというのかしら、押しかけ女房といってもいけないし、押しかけ愛人、とでもいおうかしら、そんなものなのですから、Ｍ・Ｃのほうでどうしても、いやだといったら、それっきり。だから、あなたにお願いします。どうか、あのお方に、あなたからきいてみて下さい。六年前の或る日、私の胸に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;幽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かな淡い&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;虹&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;にじ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。夕立の晴れた空にかかる虹は、やがてはかなく消えてしまいますけど、ひとの胸にかかった虹は、消えないようでございます。どうぞ、あのお方に、きいてみて下さい。あのお方は、ほんとに、私を、どう思っていらっしゃったのでしょう。それこそ、雨後の空の虹みたいに、思っていらっしゃったのでしょうか。そうして、とっくに消えてしまったものと？&lt;BR&gt;　それなら、私も、私の虹を消してしまわなければなりません。けれども、私の生命をさきに消さなければ、私の胸の虹は消えそうもございません。&lt;BR&gt;　御返事を、祈っています。&lt;BR&gt;　上原二郎様（私のチェホフ。マイ、チェホフ。Ｍ・Ｃ）&lt;BR&gt;&lt;br /&gt;&lt;DIV class=jisage_2 style="MARGIN-LEFT: 2em"&gt;私は、このごろ、少しずつ、太って行きます。動物的な女になってゆくというよりは、ひとらしくなったのだと思っています。この夏は、ロレンスの小説を、一つだけ読みました。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　御返事が無いので、もういちどお手紙を差し上げます。こないだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、蛇のような&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;奸策&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かんさく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に満ち満ちていたのを、いちいち見破っておしまいになったのでしょう。本当に、私はあの手紙の一行々々に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;狡智&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こうち&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の限りを尽してみたのです。結局、私はあなたに、私の生活をたすけていただきたい、お金がほしいという意図だけ、それだけの手紙だとお思いになった事でしょう。そうして、私もそれを否定いたしませぬけれども、しかし、ただ私が自身のパトロンが欲しいのなら、失礼ながら、特にあなたを選んでお願い申しませぬ。他にたくさん、私を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;可愛&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かわい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;がって下さる老人のお金持などあるような気がします。げんにこないだも、妙な縁談みたいなものがあったのです。そのお方のお名前は、あなたもご存じかも知れませんが、六十すぎた独身のおじいさんで、芸術院とかの会員だとか何だとか、そういう大師匠のひとが、私をもらいにこの山荘にやって来ました。この師匠さんは、私どもの西片町のお家の近所に住んでいましたので、私たちも隣組のよしみで、時たま逢う事がありました。いつか、あれは秋の夕暮だったと覚えていますが、私とお母さまと二人で、自動車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がおひとりでぼんやりお宅の門の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;傍&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;そば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんにお会釈なさったら、その師匠さんの気むずかしそうな&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蒼黒&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あおぐろ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いお顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。&lt;BR&gt;「こいかしら」&lt;BR&gt;　私は、はしゃいで言いました。&lt;BR&gt;「お母さまを、すきなのね」&lt;BR&gt;　けれども、お母さまは落ちついて、&lt;BR&gt;「いいえ、偉いお方」&lt;BR&gt;　とひとりごとのように、おっしゃいました。芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。&lt;BR&gt;　その師匠さんが、先年奥さまをなくなさったとかで、和田の叔父さまと謡曲のお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;天狗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;てんぐ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさって、お母さまは、かず子から思ったとおりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら？　とおっしゃるし、私は深く考えるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、という事を何でもなくスラスラと書けました。&lt;BR&gt;「お断りしてもいいのでしょう？」&lt;BR&gt;「そりゃもう。……私も、無理な話だと思っていたわ」&lt;BR&gt;　その頃、師匠さんは軽井沢の別荘のほうにいらしたので、そのお別荘へお断りの御返事をさし上げたら、それから、二日目に、その手紙と行きちがいに、師匠さんご自身、伊豆の温泉へ仕事に来た途中でちょっと立ち寄らせていただきましたとおっしゃって、私の返事の事は何もご存じでなく、出し抜けに、この山荘にお見えになったのです。芸術家というものは、おいくつになっても、こんな子供みたいな気ままな事をなさるものらしいのね。&lt;BR&gt;　お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、支那間でお茶を差し上げ、&lt;BR&gt;「あの、お断りの手紙、いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。私、よく考えましたのですけど」&lt;BR&gt;　と申し上げました。&lt;BR&gt;「そうですか」&lt;BR&gt;　とせかせかした調子でおっしゃって、汗をお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;拭&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;きになり、&lt;BR&gt;「でも、それは、もう一度、よくお考えになってみて下さい。私は、あなたを、何と言ったらいいか、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;謂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;い&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;わば精神的には幸福を与える事が出来ないかも知れないが、その代り、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出来る。これだけは、はっきり言えます。まあ、ざっくばらんの話ですが」&lt;BR&gt;「お言葉の、その、幸福というのが、私にはよくわかりません。生意気を申し上げるようですけど、ごめんなさい。チェホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私たちの子供を生んでおくれ、って書いてございましたわね。ニイチェだかのエッセイの中にも、子供を生ませたいと思う女、という言葉がございましたわ。私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの。お金もほしいけど、子供を育てて行けるだけのお金があったら、それでたくさんですわ」&lt;BR&gt;　師匠さんは、へんな笑い方をなさって、&lt;BR&gt;「あなたは、珍らしい方ですね。誰にでも、思ったとおりを言える方だ。あなたのような方と一緒にいると、私の仕事にも新しい霊感が舞い下りて来るかも知れない」&lt;BR&gt;　と、おとしに似合わず、ちょっと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;気障&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きざ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;みたいな事を言いました。こんな偉い芸術家のお仕事を、もし本当に私の力で若返らせる事が出来たら、それも生き&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;甲斐&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;がい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;のある事に違いない、とも思いましたが、けれども、私は、その師匠さんに抱かれる自分の姿を、どうしても考えることが出来なかったのです。&lt;BR&gt;「私に、恋のこころが無くてもいいのでしょうか？」&lt;BR&gt;　と私は少し笑っておたずねしたら、師匠さんはまじめに、&lt;BR&gt;「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ」&lt;BR&gt;　とおっしゃいます。&lt;BR&gt;「でも、私みたいな女は、やっぱり、恋のこころが無くては、結婚を考えられないのです。私、もう、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;大人&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おとな&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;なんですもの。来年は、もう、三十」&lt;BR&gt;　と言って、思わず口を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;覆&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いたいような気持がしました。&lt;BR&gt;　三十。女には、二十九までは&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;乙女&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;おとめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;匂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;にお&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。あの小説を読んだ時には、そりゃそうだろうと軽く肯定して澄ましていた。三十歳までで、女の生活は、おしまいになると平気でそう思っていたあの頃がなつかしい。腕輪、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頸飾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くびかざ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;り、ドレス、帯、ひとつひとつ私のからだの周囲から消えて無くなって行くに従って、私のからだの乙女の匂いも次第に淡くうすれて行ったのでしょう。まずしい、中年の女。おお、いやだ。でも、中年の女の生活にも、女の生活が、やっぱり、あるんですのね。このごろ、それがわかって来ました。英人の女教師が、イギリスにお帰りの時、十九の私にこうおっしゃったのを覚えています。&lt;BR&gt;「あなたは、恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい」&lt;BR&gt;　けれども、そう言われても私は、きょとんとしていました。三十になってからの事など、その頃の私には、想像も何も出来ないことでした。&lt;BR&gt;「このお別荘を、お売りになるとかいう&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;噂&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うわさ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を聞きましたが」&lt;BR&gt;　師匠さんは、意地わるそうな表情で、ふいとそうおっしゃいました。&lt;BR&gt;　私は笑いました。&lt;BR&gt;「ごめんなさい。桜の園を思い出したのです。あなたが、お買いになって下さるのでしょう？」&lt;BR&gt;　師匠さんは、さすがに敏感にお察しになったようで、怒ったように口をゆがめて黙しました。&lt;BR&gt;　或る宮様のお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;住居&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;すまい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;として、新円五十万円でこの家を、どうこうという話があったのも事実ですが、それは立ち消えになり、その噂でも師匠さんは聞き込んだのでしょう。でも、桜の園のロパーヒンみたいに私どもに思われているのではたまらないと、すっかりお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;機嫌&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きげん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を悪くした様子で、あと、世間話を少ししてお帰りになってしまいました。&lt;BR&gt;　私がいま、あなたに求めているものは、ロパーヒンではございません。それは、はっきり言えるんです。ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。&lt;BR&gt;　私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;滲&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;し&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;み込んでいたのです。あの夜、地下室の階段で、私たちのした事も、急にいきいきとあざやかに思い出されて来て、なんだかあれは、私の運命を決定するほどの重大なことだったような気がして、あなたがしたわしくて、これが、恋かも知れぬと思ったら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。あなたは、他の男のひとと、まるで全然ちがっています。私は、「かもめ」のニーナのように、作家に恋しているのではありません。私は、小説家などにあこがれてはいないのです。文学少女、などとお思いになったら、こちらも、まごつきます。私は、あなたの赤ちゃんがほしいのです。&lt;BR&gt;　もっとずっと前に、あなたがまだおひとりの時、そうして私もまだ山木へ行かない時に、お逢いして、二人が結婚していたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだのかも知れませんが、私はもうあなたとの結婚は出来ないものとあきらめています。あなたの奥さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。私は、おメカケ、（この言葉、言いたくなくて、たまらないのですけど、でも、愛人、と言ってみたところで、俗に言えば、おメカケに違いないのですから、はっきり、言うわ）それだって、かまわないんです。でも、世間普通のお&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;妾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;めかけ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の生活って、むずかしいものらしいのね。人の話では、お妾は普通、用が無くなると、捨てられるものですって。六十ちかくなると、どんな男のかたでも、みんな、本妻の所へお戻りになるんですって。ですから、お妾にだけはなるものじゃないって、西片町のじいやと&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;乳母&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うば&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が話合っているのを、聞いた事があるんです。でも、それは、世間普通のお妾のことで、私たちの場合は、ちがうような気がします。あなたにとって、一番、大事なのは、やはり、あなたのお仕事だと思います。そうして、あなたが、私をおすきだったら、二人が仲よくする事が、お仕事のためにもいいでしょう。すると、あなたの奥さまも、私たちの事を納得して下さいます。へんな、こじつけの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;理窟&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;りくつ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;みたいだけど、でも、私の考えは、どこも間違っていないと思うわ。&lt;BR&gt;　問題は、あなたの御返事だけです。私を、すきなのか、きらいなのか、それとも、なんともないのか、その御返事、とてもおそろしいのだけれども、でも、伺わなければなりません。こないだの手紙にも、私、押しかけ愛人、と書き、また、この手紙にも、中年の女の押しかけ、などと書きましたが、いまよく考えてみましたら、あなたからの御返事が無ければ、私、押しかけようにも、何も、手がかりが無く、ひとりでぼんやり&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;痩&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;や&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;せて行くだけでしょう。やはりあなたの何かお言葉が無ければ、ダメだったんです。&lt;BR&gt;　いまふっと思った事でございますが、あなたは、小説ではずいぶん恋の冒険みたいな事をお書きになり、世間からもひどい悪漢のように噂をされていながら、本当は、常識家なんでしょう。私には、常識という事が、わからないんです。すきな事が出来さえすれば、それはいい生活だと思います。私は、あなたの赤ちゃんを生みたいのです。他のひとの赤ちゃんは、どんな事があっても、生みたくないんです。それで、私は、あなたに相談をしているのです。おわかりになりましたら、御返事を下さい。あなたのお気持を、はっきり、お知らせ下さい。&lt;BR&gt;　雨があがって、風が吹き出しました。いま午後三時です。これから、一級酒（六合）の配給を&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;貰&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;もら&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;いに行きます。ラム酒の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;瓶&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;びん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を二本、袋にいれて、胸のポケットに、この手紙をいれて、もう十分ばかりしたら、下の村に出かけます。このお酒は、弟に飲ませません。かず子が飲みます。毎晩、コップで一ぱいずついただきます。お酒は、本当は、コップで飲むものですわね。&lt;BR&gt;　こちらに、いらっしゃいません？&lt;BR&gt;　　Ｍ・Ｃ様&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　きょうも雨降りになりました。目に見えないような&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;霧雨&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きりさめ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;が降っているのです。毎日々々、外出もしないで御返事をお待ちしているのに、とうとうきょうまでおたよりがございませんでした。いったいあなたは、何をお考えになっているのでしょう。こないだの手紙で、あの大師匠さんの事など書いたのが、いけなかったのかしら。こんな縁談なんかを書いて、競争心をかき立てようとしていやがる、とでもお思いになったのでしょうか。でも、あの縁談は、もうあれっきりだったのです。さっきも、お母さまと、その話をして笑いました。お母さまは、こないだ舌の先が痛いとおっしゃって、直治にすすめられて、美学療法をして、その療法に&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;依&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;よ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;って、舌の痛みもとれて、この頃はちょっとお元気なのです。&lt;BR&gt;　さっき私がお縁側に立って、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;渦&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;うず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を巻きつつ吹かれて行く霧雨を眺めながら、あなたのお気持の事を考えていましたら、&lt;BR&gt;「ミルクを&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;沸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;わか&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;したから、いらっしゃい」&lt;BR&gt;　とお母さまが食堂のほうからお呼びになりました。&lt;BR&gt;「寒いから、うんと熱くしてみたの」&lt;BR&gt;　私たちは、食堂で湯気の立っている熱いミルクをいただきながら、先日の師匠さんの事を話合いました。&lt;BR&gt;「あの方と、私とは、どだい何も似合いませんでしょう？」&lt;BR&gt;　お母さまは平気で、&lt;BR&gt;「似合わない」&lt;BR&gt;　とおっしゃいました。&lt;BR&gt;「私、こんなにわがままだし、それに芸術家というものをきらいじゃないし、おまけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりゃいいと思うわ。だけど、ダメなの」&lt;BR&gt;　お母さまは、お笑いになって、&lt;BR&gt;「かず子は、いけない子ね。そんなに、ダメでいながら、こないだあの方と、ゆっくり何かとたのしそうにお話をしていたでしょう。あなたの気持が、わからない」&lt;BR&gt;「あら、だって、面白かったんですもの。もっと、いろいろ話をしてみたかったわ。私、たしなみが無いのね」&lt;BR&gt;「いいえ、べったりしているのよ。かず子べったり」&lt;BR&gt;　お母さまは、きょうは、とてもお元気。&lt;BR&gt;　そうして、きのうはじめてアップにした私の髪をごらんになって、&lt;BR&gt;「アップはね、髪の毛の少いひとがするといいのよ。あなたのアップは立派すぎて、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;金&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の小さい冠でも載せてみたいくらい。失敗ね」&lt;BR&gt;「かず子がっかり。だって、お母さまはいつだったか、かず子は&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頸&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;くび&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;すじが白くて&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;綺麗&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;きれい&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だから、なるべく頸すじを隠さないように、っておっしゃったじゃないの」&lt;BR&gt;「そんな事だけは、覚えているのね」&lt;BR&gt;「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」&lt;BR&gt;「こないだ、あの方からも、何かとほめられたのでしょう」&lt;BR&gt;「そうよ。それで、べったりになっちゃったの。私と一緒にいると霊感が、ああ、たまらない。私、芸術家はきらいじゃないんですけど、あんな、人格者みたいに、もったいぶってるひとは、とても、ダメなの」&lt;BR&gt;「直治の師匠さんは、どんなひとなの？」&lt;BR&gt;　私は、ひやりとしました。&lt;BR&gt;「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ」&lt;BR&gt;「札つき？」&lt;BR&gt;　と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;呟&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つぶや&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;き、&lt;BR&gt;「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;子猫&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こねこ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」&lt;BR&gt;「そうかしら」&lt;BR&gt;　うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持でした。おわかりになります？　なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、……殴るわよ。&lt;BR&gt;　いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません？　私から直治に、あなたをお連れして来るように、って言いつけるのも、何だか不自然で、へんですから、あなたご自身の酔興から、ふっとここへ立寄ったという形にして、直治の案内でおいでになってもいいけれども、でも、なるべくならおひとりで、そうして直治が東京に出張した留守においでになって下さい。直治がいると、あなたを直治にとられてしまって、きっとあなたたちは、お咲さんのところへ&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;焼酎&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しょうちゅう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;なんかを飲みに出かけて行って、それっきりになるにきまっていますから。私の家では、先祖代々、芸術家を好きだったようです。&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;光琳&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;こうりん&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;という画家も、むかし私どもの京都のお家に永く滞在して、&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;襖&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ふすま&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;に綺麗な絵をかいて下さったのです。だから、お母さまも、あなたの御来訪を、きっと喜んで下さると思います。あなたは、たぶん、二階の洋間におやすみという事になるでしょう。お忘れなく電燈を消して置いて下さい。私は小さい&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;蝋燭&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ろうそく&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を片手に持って、暗い階段をのぼって行って、それは、だめ？　早すぎるわね。&lt;BR&gt;　私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。あなたの事ですから、きっといろいろのアミをお持ちでしょうけれども、いまにだんだん私ひとりをすきにおなりでしょう。なぜだか、私には、そう思われて仕方が無いんです。そうして、あなたは私と一緒に暮して、毎日、たのしくお仕事が出来るでしょう。小さい時から私は、よく人から、「あなたと一緒にいると苦労を忘れる」と言われて来ました。私はいままで、人からきらわれた経験が無いんです。みんなが私を、いい子だと言って下さいました。だから、あなたも、私をおきらいの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;筈&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;はず&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;は、けっしてないと思うのです。&lt;BR&gt;　&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;逢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;えばいいのです。もう、いまは御返事も何も要りません。お逢いしとうございます。私のほうから、東京のあなたのお宅へお伺いすれば一ばん簡単におめにかかれるのでしょうけれど、お母さまが、何せ半病人のようで、私は&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;附&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;つ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;きっきりの看護婦兼お女中さんなのですから、どうしてもそれが出来ません。おねがいでございます。どうか、こちらへいらして下さい。ひとめお逢いしたいのです。そうして、すべては、お逢いすれば、わかること。私の口の両側に出来た&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;幽&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;かす&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;かな&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;皺&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;しわ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;を見て下さい。世紀の悲しみの皺を見て下さい。私のどんな言葉より、私の顔が、私の胸の思いをはっきりあなたにお知らせする筈でございます。&lt;BR&gt;　さいしょに差し上げた手紙に、私の胸にかかっている虹の事を書きましたが、その虹は&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;螢&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ほたる&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;の光みたいな、またはお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。そんな淡い遠い思いだったら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れて行く事が出来たでしょう。私の胸の虹は、炎の橋です。胸が焼きこげるほどの思いなのです。麻薬中毒者が、麻薬が切れて薬を求める時の気持だって、これほどつらくはないでしょう。間違ってはいない、よこしまではないと思いながらも、ふっと、私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしているのではないかしら、と思って、ぞっとする事もあるんです。発狂しているのではないかしらと反省する、そんな気持も、たくさんあるんです。でも、私だって、冷静に計画している事もあるんです。本当に、こちらへいちどいらして下さい。いつ、いらして下さっても大丈夫。私はどこへも行かずに、いつもお待ちしています。私を信じて下さい。&lt;BR&gt;　もう一度お逢いして、その時、いやならハッキリ言って下さい。私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行って下さい。私ひとりの力では、とても消す事が出来ないのです。とにかく逢ったら、逢ったら、私が助かります。万葉や源氏物語の&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;頃&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ころ&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;だったら、私の申し上げているようなこと、何でもない事でしたのに。私の望み。あなたの&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;愛妾&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;あいしょう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;になって、あなたの子供の母になる事。&lt;BR&gt;　このような手紙を、もし&lt;RUBY&gt;&lt;RB&gt;嘲笑&lt;/RB&gt;&lt;RP&gt;（&lt;/RP&gt;&lt;RT&gt;ちょうしょう&lt;/RT&gt;&lt;RP&gt;）&lt;/RP&gt;&lt;/RUBY&gt;するひとがあったら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑す
